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『シェルター』甲斐さやか――立ち読み

『シェルター』甲斐さやか――立ち読み

甲斐 さやか

電子版32号

出典 : #別冊文藝春秋
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

「別冊文藝春秋 電子版32号」(文藝春秋 編)

 空っぽの紙袋の底をしばらく見下ろしていた。これが個人に与えられるすべてなのかと思うと、紙袋を畳む行為まで慎重になる。

 ようやく一人になれたのに、どうにも落ち着かず、ひとまず簡易椅子に腰掛けた。狭い部屋の壁に囲われた途端に現実が迫るようで、居た堪れない。車中での不安に比べたら、比較にならない程楽になったはずなのに、懲りもせずに次の心配が襲ってくる。

 この場所の異常性にまだ慣れていないのも大きかった。いつかニュースで見た、女ばかりの教団を思い出した。

 白い作務衣の女たちが、報道カメラの方を向いて、誇らしげに教団歌を歌っていた。彼女たちが大映しになるたびに、佐和子はその親の心中を察した。洗脳は怖い。晒し者だというのに、どうして気付かないのかしら。無垢な大人という、この国独特の怖さが残った。カルトという言葉が過ぎり、ここは本当に公的施設なのかと、きりのない不安を数えてしまう。

 無機質な建物、白い服に薄い眉、笑わないガイド、番号で呼び合い、過去や素性を徹底して封印する。名前を無くした途端に、国籍や人格まで取り上げられるような、自分を失う怖さがあった。預けた身分証や自宅の鍵も、悪用されないとは限らない。

 晩夏にもかかわらず、カチカチと歯が鳴った。丸裸にされて、こんな場所にたった一人。得体の知れない不安に、身体も反応した。もう誰の妻でも、誰の娘でもない。ただの十三番になったのだ。

 羽織りものを取り出しながら、大分陽が落ちたことに気付いた。部屋の電灯のスイッチを探り当てると、蛍光灯が点灯し、過剰に明るい部屋になった。冷暖房のスイッチらしきものは見当たらず、空調は一括管理されているようだ。

 闇に沈んだ窓ガラスに、直視できない程老け込んだ、自分の姿が映っていた。まがいもない現実だった。何一つ特別でない、メッキの剝げた自分。この部屋で鬱々と考えても、何も摑めずにただ不安が募り、老婆のように萎んでいく。

 それにこの部屋も監視されているかもしれない。

 佐和子は、ドアに耳を当てた。まるで幽霊屋敷だ。誰かが廊下を歩く音も、他の部屋からの物音さえも聞こえない。佐和子はゆっくりとドアを開け、薄氷を踏むように息を詰めて廊下を歩いて行った。

別冊文藝春秋からうまれた本

別冊文藝春秋 電子版32号(2020年7月号)
文藝春秋・編

発売日:2020年06月19日

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