別冊文藝春秋

『シェルター』甲斐さやか――立ち読み

文: 甲斐 さやか

電子版32号

「別冊文藝春秋 電子版32号」(文藝春秋 編)

 目を奪われたのは庭だった。美しかった。石榴か無花果のような赤橙色の実のなる小高木、その脇には大木が繁り木陰を作っている。地面に紫や赤の小花も植えられて、銀色のジョウロで水やりする女もいる。庭への出入りは自由なのか、一人また、広間から出て行った。

 この景色だけを切り取れば、楽園に暮らす幸せな女たちに映るだろう。ガイドの話が本当ならば、これは、計画された復帰プログラムの束の間のひと時のはずだ。不幸せな人にこんなにも美しい箱庭を提供するのは、却って残酷だと誰も思わなかったのだろうか。

 手掛けた建築家がこだわったのか、内部まで白系の家具で統一されていた。乳白色のガラス机に肘を突くと、ひやりとする。冷たい人が建てたのだと思いながら、佐和子はそっと腕を離した。

 事務室のドアが開いて、ガイドが湯気の立つコーヒーカップとポットを運んできた。寒気を覚えていたので、白い湯気を見てほっとする。

 座るなり、ガイドはロボットのように正確に、一言も嚙まずに話し始めた。

「いまからあなたは十三番です。ここでは皆、名前ではなく、記号で呼び合います」

「記号?」

 コーヒーカップを手で囲いながら、佐和子は素っ頓狂な声を出した。

「番号と言ったほうが良かったかしら」

 ガイドは、何度もこの説明を繰り返しているはずだ。こちらが落ち着く間合いを、一重瞼から覗く鋭い眼光で観察している。

「素性が特定されるのを防ぐためよ」

 だし抜けに、ラジオ体操の呑気なアナウンスが響いた。ガラス越しに、広間のざわめきが伝わってくる。

 佐和子は熱いコーヒーを一気に飲み干した。ブルッと身体が震えた。ガイドが湯気の上がるポットから、佐和子のカップに二杯目を注ぎはじめる。

「あの……携帯はずっと預けたままですか」

「使用禁止になっています。外とつながると碌なことにならないので」

「碌なこと?」

「人生をやり直すということは、元凶になった人物、生活、すべての過去を断ち切ることなんです。一筋縄じゃ行きません。簡単じゃないからこそ、当然、途中で折れる人もいる。つまり、何度も出たり入ったりする人が、一定数いるんです。元いた場所を断ち切る覚悟を持ってもらわないとなりません」

「……そうですか。お金はどうなりますか?」

「厳重に管理して、ここを出るときにそのままお返しします。この事務室には、カードキーを持つ、限られたスタッフしか出入りできません」

 ガイドの背後の壁には、無数の鍵が掛けられていた。

 ガイドが、予定表のようなものを取り出した。

「一人ずつ部屋が与えられます。朝食は七時半から食堂に並びますので九時までに済ませてください。お昼は十二時から十三時。十四時と十六時に庭で体操があるので、どちらかに参加してください。煎餅二枚程度のおやつも出ます。夕食は十八時から二十時の間。二十一時までには部屋に戻り、早めの就寝を心がけてください。シャワー室は自由に使えますが、スタッフに声をかけてください。スタッフは大抵、この事務室の奥にいますが、シャワー室の前にスタッフルーム直通の内線電話があります。住み込みの寮母が一人。タオル、着替え、下着、歯ブラシ、生理用品はシャワー室の前に置いてあります。トイレは共同です」

別冊文藝春秋からうまれた本

別冊文藝春秋 電子版32号(2020年7月号)文藝春秋・編

発売日:2020年06月19日


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