
最後に、刑罰は「応報」のためにあるのではないから、遺族感情を重視するのは近代法の精神に反するという意見もあります。しかし、刑罰の目的の一つが「応報」であることは事実です。刑法のどの教科書にも最初の方に書いてあることです。ただし、「応報」というのは、「やられたらやり返せ」を意味しているわけではなく、「犯罪に応じた刑罰を科す」ということなのです。ですから、「命を奪ったものは、死刑によって命を差し出す」ことが、「犯罪に応じた刑罰」に他ならないといえます。
約40年前の基準は適正か
我が国には死刑制度があるにもかかわらず、殺人事件の裁判で死刑判決が下されることはまれです。ここ数年の殺人事件は一年で900件前後(未遂を含む)ですが、死刑判決が出るのは一年にわずか数件にすぎず、全体の1%未満ということになります。つまり、殺人を犯しても、ほぼ死刑になることはありません。
なぜ、こんなにも少ないのでしょうか。
死刑判決というのは、裁判官や裁判員の気分で出されるものではありません。1968年、19歳の少年が4名を銃殺した事件(永山事件)で、最高裁はどのような場合に死刑判決が下されるのかという基準を示しました(1983年7月8日)。これは「永山基準」と呼ばれ、現在でもそれが死刑判決の基準として用いられています。後で詳しく述べますが、事件は個別に検討されるべきであるにもかかわらず、この「永山基準」が一人歩きしているフシがあります。
1968年というと、50年以上昔の事件であり、永山基準が示されたのも40年近く昔のことです。国民の生活状況や人権意識が凄まじいスピードで変化していくなかで、この古い基準が適正かどうか検証されることもなく、頑固に残り続けていること自体、不当ではないでしょうか。