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クールで頭の切れる二枚目の喜八郎。

クールで頭の切れる二枚目の喜八郎。

文:大矢 博子 (書評家)

『牛天神』(山本 一力)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

『牛天神』(山本 一力)

 山本 江戸時代の大店の主の見識の一つに、ご町内の同業者をつぶさないというものがあった。これは大店にとっての鉄則だよ。自分がいくら金を持っているからって、小商人の食い扶持を奪うようなことはやっちゃいかんと。

 宇江佐 安売り競争になったら、小さい店はひとたまりもないですからね。

 山本 ご町内を大事にする精神が日本ではなくなってしまったんだよなあ。でもね、何とこの精神がニューヨークに残っているんだ。

 

 このあとで著者は、ニューヨークでは同じブロックの中に同業の店が複数あり、客は価格ではなく「自分が好きな店で買う」という文化を紹介する。

 

 宇江佐 うわあ、いい街だなあ。今は都市が荒廃しているでしょう。郊外の量販店だけが潤う仕組みになっているのは健全じゃない。

 山本 あれは消費者が相手にしなかったら成り立つはずがない。安売りはどうぞ勝手にやってください、俺は地元の店で買うよ、とみんなが思えば小商人の商売も傾かないよ。(中略)町内の店を大事にするというのは、何も江戸時代まで遡らなくても、俺たちが子供の時分は普通のことだった。町内の文房具店にないものをデパートで買ったとするだろう。そうしたら町内の文房具屋の前では、その品物を隠して歩いたもんだよ。ご町内のお店に申し訳ないって気持ちでさ。

 

 時代が移りゆく中で、便利になるのはもちろんいい。不便な時代に戻れということではない。けれどその中でも、忘れてはいけないもの、なくしてはいけないものがある。山本一力は、それをこの物語に込めたのだ。それこそが時代小説というジャンルが私たちに伝えてくれる最も大きな贈り物だろう。

 ここで注目願いたいのは、地縁、地域のつながりというテーマは決して本書だけのものではない、ということだ。むしろ第一作の『損料屋喜八郎始末控え』から、著者がずっと物語の通奏低音として描き続けていたものである。頭脳戦の面白さが前面に出ているが、実はその背景には、常に「ご町内」があった。

 何かあれば助け合い、町内あげて祭を盛り上げるような、つながりの強い住民たちの姿を山本一力はこれまで地道に描き続けてきた。だからこそ、本書の巨大安売り市場への対抗策に説得力がでる。独立した短編に見えた第一話・二話があとで効いてくるように、本書の深川の人々の描写はこれまでのシリーズ三作の積み重ねがあってこそなのだ。

 シリーズ第一作は悪徳(実はそうでもないのだが)の札差と喜八郎の頭脳戦を堪能できる一級品の江戸経済サスペンスだったが、二作目以降、詐欺などのミステリ風味はそのままに、人間ドラマ・地域ドラマの比率が増してきた。そこには、数字ではなく人々の日々の営みこそが経済なのだという著者の思いが見てとれる。

 長い不況にあえぐ今だからこそ読みたいシリーズである。

文春文庫
牛天神
損料屋喜八郎始末控え
山本一力

定価:748円(税込)発売日:2020年10月07日

文春文庫
粗茶を一服
損料屋喜八郎始末控え
山本一力

定価:682円(税込)発売日:2011年08月04日

文春文庫
赤絵の桜
損料屋喜八郎始末控え
山本一力

定価:671円(税込)発売日:2008年06月10日

文春文庫
損料屋喜八郎始末控え
山本一力

定価:748円(税込)発売日:2003年06月10日

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