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スパイの妻は不時着の時を待つ――『愛の不時着』と『スパイの妻』

スパイの妻は不時着の時を待つ――『愛の不時着』と『スパイの妻』

文:廣瀬 純

文學界11月号

出典 : #文學界

「文學界 11月号」(文藝春秋 編)

 エピクロスやルクレティウスといった古代の原子論者にとって、クリナーメンの生起は「偶然」に因るもの以外にあり得ない。『愛の不時着』でも、リ・ジョンヒョクのもとへのユン・セリの不時着は偶然に因るものとして経験される。しかし、互いに惹かれ合い、不時着が最初から「“愛の”不時着」だったという思いを次第に強めていくなかで、二人は次のように問わずにはいられなくなる。“自分たちの出会いは「運命」に因るものだったのではないか”。古代原子論者たちがけっして立てなかったこの問いに何が彼らを導くのか。古代原子論には平行と出会いしかない。宇宙をユークリッド平面上でのみ捉え、その平面を支配する平行線公理(平行線は交わらない)を前提にしているからだ。『愛の不時着』では、原子が経験し得る第三の運動が平行と出会いとの間に導入される。二原子の軌道があくまでも平行であり続けながら、しかし交わるという運動である。球面上の経線(緯線にいずれも直角に交わるという点で互いに平行だと言えるすべての経線は極点で交わる)を例によく説明されるこの“交わる平行線”のユークリッド平面外での経験こそが、偶然のただなかに運命を見出すことへとユン・セリとリ・ジョンヒョクを導くのだ。朝鮮半島が、平行と出会いの場、ユークリッド平面として位置付けられているとすれば、平行でありながらすでに出会っているという経験がなされる場、ユークリッド平面のその外はスイスに求められる。スイスで二人はすでに出会っていたが、しかし、彼らはその出会いをあくまでも平行としてしか経験しなかった。あるいは、二人の軌道はあくまでも平行していたが、その平行のうちですでに出会いがなされていた。

 

この続きは、「文學界」11月号に全文掲載されています。

文學界 11月号

2020年11月号 / 10月7日発売
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