恩田 陸さんの手紙
皆川博子先生へ
ご無沙汰しております。最新作『U(ウー)』拝読いたしました。ますます旺盛に、全く途切れることなく重量級の作品を生み出し続けておられることに、ただただ圧倒されました。
むろん、巻末を拝見すれば、多数の参考文献から知識を得ていらっしゃることは分かるのですが、いったいどのようにしてこのようなお話を発想するのかが不思議でなりません。この『U』の場合、お話の発想の最初のところはなんなのでしょう? 場面なのか、こういう設定で、というスタートなのか、あるいは登場人物なのか? 皆川先生の作品の「ゼロ地点」を教えていただきたいです。もしよろしければ、近年の他作品の「ゼロ地点」についても聞かせていただければ幸いです。
「伝奇」というのは、私にとって憧れのジャンルです。物書きになってから、いつか面白い「伝奇」ものを書いてみたいと願い、実際幾つか書いてみましたが、どうやら自分にはあまり向いていないのではないかと怪しみ始めています。現在も複数抱えているのですが、ひどく苦戦しておりまして、寝かせていてもいっこうに発酵する気配を見せません。このままだと腐りそうです。こんなことは教えられるものではないと承知しているのですが、「ザ・伝奇」である皆川先生に、どのようにすれば史実と空想の折り合いをつけるコツを得られるのか、ご教示願います。文献を読む時に心がけておられることとか、風呂敷の広げ方、畳み方など、経験上こうすればスムーズにいく、とか、発想のトレーニング法とか、なんでもけっこうです。あつかましいとは思いますが、悩める「伝奇」修行者になにとぞアドバイスをお願いいたします。
『辺境図書館』を拝読し、読み手としても先生が凄まじい(という言葉を使うことをお許しください)域に達しておられて、全く近付ける気がしません。それでも好奇心からお尋ねしますが、最近面白かった本はなんでしょうか。資料としてでも、個人的な好みでも、どちらでも構いません。読み方が以前と変わられた点があれば、それもぜひ。
恩田陸様
〈先生〉やめて~。恩田さんにそう呼ばれたら、からかわれているのかと思っちゃう。
編集の方と三人で、不思議な舞台を見たの、おぼえていらっしゃいますか。何年……何十年、前でしたっけ。あの闇の中で顔がどんどん大きくなる仕掛け、いまだに謎です。
発想のゼロ地点、って考えたことなかったのですが、『U』について言えば、最初連載のお話をいただいたとき、まず、思ったのが、定点観測をやりたいということでした。『ロンドン』(エドワード・ラザファード)という長編、お読みになりましたか。ロンドンの一地点を定め、ローマ時代から現在までの二千年にわたる変遷を、幾つかの家族の浮沈を通して書いたフィクションです。
ヨーロッパの国々は、戦争などによってしばしば国境が移動する。そこに定住しているひとたちは、自分は動いてはいないのに、かってに属する国が変わってしまいます。ことに、ポーランドとかチェコ、ルーマニア、ハンガリー、あのあたりは、国境が動く。もう一つ、『アンダーグラウンド』という面白い映画、あったでしょ。地上には国境があるのに、地下は、どこにでもつながっている。そこに興味を持ち、ルーマニアあたりの定点観測はできないかと調べ始めたところ、ヨーロッパ東部とオスマン帝国との関わりを知ったのです。オスマンには前から興味がありました。ルーマニアの資料の中でオスマンによる強制徴募(デウシルメ)を知り、これを書きたい、という素材を掴みました。素材に掴まれた、とも言えます。定点観測はふっとび、編集の方に最初に申し上げた構想とは、まったく違う物になってしまいました。
興味を惹かれる素材に遭遇する瞬間が、私のゼロ地点だろうと思います。
『クロコダイル路地』ですと、『ナントの虐殺』というノンフィクションを読んだのがきっかけです。フランス革命は、けっして『ベルばら』みたいにかっこういいものではないですね。『聖餐城』は、かねがね傭兵に興味を持っていたところ、折よく『ドイツ傭兵の文化史』(ラインハルト・バウマン)という本が邦訳刊行され、それをもとに物語の構築に取りかかったのでした。
伝奇を書こうと意識しているわけではなく、興味を持った素材を好きなように書いていると、結果として伝奇と呼ばれるのかもしれない物語になっているというふうです。
ジャンルの定型に当てはめるのではなく、自分が書きたいように書いています。
ある場面が、はっきり絵になって浮かぶと、書きやすいです。
恩田さんもおそらく、登場人物が作者の意図を離れて自由に動き出すという経験をしていらっしゃるのではないでしょうか。
最近読んで惹かれたのは、フリオ・リャマサーレスの『黄色い雨』です。このごろ、心が老化、硬化したのか、好きだ! と感じる作になかなか出会えなかったのですが、久しぶりに、心にしみ入りました。住人たちは散り散りに去り、建物は朽ちていく廃村に、ただ一人居残り、死と生の境界に横たわる老いた男。独特の形式で書かれた静謐で力強い作です。
もう一つは、少し前に読んだのですが、アントワーヌ・ヴォロディーヌの『無力な天使たち』。四十九の美しい断章が浮かび上がらせる、曇り硝子を透かし見るようなゆらめく世界。
恩田さんも、いつも、創作の上で新しい手法、新しい表現法を試みておられるように思います。
まだ文字、文章にはなっていない幾つもの物語が、恩田さんの中で、形になることを求めてひしめいているのではないでしょうか。
皆川博子様
素晴らしいお返事、ありがとうございました。
アドバイスを胸に、これ以上引き離されないよう頑張ります……と言いたいところですが、もはや距離を詰められそうにないので、このままぶっちぎりで、いつまでも我々の先陣を駆け続けてくださいませ。
恩田 陸
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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