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内田樹が「天皇主義者」を名乗った、その真意と挑戦

内田樹が「天皇主義者」を名乗った、その真意と挑戦

文:永田 和宏 (歌人・生物学者)

『街場の天皇論』(内田 樹)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #ノンフィクション

『街場の天皇論』(内田 樹)

 天皇の「おことば」に対する著者の読みは、まず天皇自らが発した「象徴的行為」という言葉に注目するところから始まる。「“新しい天皇制解釈”に踏み込んだ」ものであるというのが、ポイントである。そして「そこで言われた象徴的行為とは実質的には『鎮魂』と『慰藉』のことです」とし、「死者たち、傷ついた人たちの傍らにあること、つまり『共苦すること(compassion)』を陛下は象徴天皇の果たすべき『象徴的行為』と定義したわけです」と結論づける。私はこの部分に深く頷くのである。


 少しだけ私のことに触れさせてほしい。著者が私に解説を書くように言ったのは、拙著『象徴のうた』(文藝春秋)の書評を書いたことにもよるのであろう。

 私は二〇一八年の一月から翌年三月、平成から令和に変わる寸前まで、共同通信系の新聞で「象徴のうた」と題して、週一回、六十数回の連載を行なった。平成の天皇、皇后が平成三十年間に作られた歌(短歌)を丹念に辿ることによって、平成という時代を辿り、かつ両陛下が自らの〈象徴〉という存在をどのように模索してこられたのかを考えたのである。そこで得た結論は、本書で語られる著者の見方と近いものであった。

 日本国憲法第一章第一条は、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と天皇について規定している。私はかねてより、これほど大切で、またこれほど無責任な規定はないのではないかと思ってきた。「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」と繰り返される〈象徴〉。しかし、〈象徴〉とは何か、どうすれば〈象徴〉たり得るのかについて、憲法の条文はいっさい何も語らない。その意味、あるいは実体を考えるという行為を、天皇一人に丸投げしてきたのが、象徴天皇発足以来の、私たち日本国民ではなかっただろうか。

「象徴とは何か」、「どうすれば象徴たり得るのか」、その誰も答えを持たない難問にまっすぐ向き合い、即位以来三〇年をかけて、その答えを模索してきたのが平成の天皇であり、その歩みが平成という時代であった。

 歌で断然多いのは、被災地への慰問の旅、そして海外を含め太平洋戦争での激戦地への慰霊の旅であった。この二つに共通するところのものは、「寄り添う」と「忘れない」という意志の表明だと私は思う。

 震災などの被害者に「寄り添う」だけではなく、彼らをいつまでも「忘れない」で幾度も被災地への訪問が繰り返される。戦死者を悼み、今なお死者を抱えて生きている遺族に「寄り添う」。慰霊の旅は、また自分と共に国民誰もが戦争の悲惨さを「忘れない」で居て欲しいという天皇の意志の表出でもあった。そしてこれらの行為こそが、天皇にとっての象徴的行為であったというのが私の言いたかったところである。歌をじっくりと読み込むことで、そのような構図がおのずからあぶり出されてくる。


 私のはあくまで個々の歌に即して辿りついた結論であったが、本書の著者は、


 この「共苦(compassion)」という営みが現代の天皇の引き受けるべき霊的な責務、「象徴的行為」の実体であるということを一歩踏み込んで明らかにしたという点に今回の「おことば」の歴史的意義はあるのだろうと思います。  (「私が天皇主義者になったわけ」)


と言い、さらに


 象徴としての務めは「全身全霊をもって」果たさなければならないという天皇の宣言は、改憲草案が天皇をその中に閉じ込めようとしている「終身国家元首」という記号的存在であることをきっぱり否定したものだと私は理解しています。  (同)

文春文庫
街場の天皇論
内田樹

定価:869円(税込)発売日:2020年12月08日

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