
そして、そういう熱烈な「怖いファン」たちの中に、「プロレスは終わる」と言う人がいたのも事実だ。彼らは昭和のプロレスラーをこそ本物だと思っていたし、そこに必ず付随して語られる言葉が、本書にも書かれてある「ストロングスタイル」だった。
そんな状況でデビューしたのが、棚橋弘至と中邑真輔だ。
正直に書くが、例えば当時の私自身も、棚橋選手のことを「チャラい人が現れた」と思っていた。昭和のプロレスの幻影に、私自身も囚われていた。かつての哲学は、その怖さの分だけ「正しい」と考えていたのだ。
本書はこの「正しさ」の呪いを払拭し、新しい価値観をもたらすことに命を賭けた二人のレスラーの物語である。
『ストロングスタイルは前世紀の遺物であり、21世紀の新日本プロレスは、観客が楽しい記憶を持って帰れるハッピーエンドのプロレスを提供するべきだ。
棚橋はそう考えていた。
創業者の思想を完全否定して、まったく新しい思想を提唱する。
棚橋弘至は思想家であり、革命家であり、煽動者であり、それゆえに孤独だった。』
『自分はIWGPヘビー級のベルトを巻いて、新日本プロレスの社風であるストロングスタイルを守っていかないといけない、という呪縛がこの時に解けた。誰かに解いてもらったわけではなく、自分自身で解くことができたんです。』
若きスターたちは、最初から輝いていたわけではない。それどころか、ほとんど暗黒からのスタートだったと言っていいだろう。プロレスの低迷を知っていたはずの私ですら、その苦悩は想像を絶するものだった。さらに注目すべきは、彼らはただの破壊者ではなく、彼ら自身、この「正しさ」と共に育ってきた世代であるということだ。つまり彼らは、自分の愛したものを越えなければいけなかったのだ。
『本来、僕の好みはねちっこいグラウンドレスリング。藤波さんのようにクラシカルな技を使う、玄人好みの渋いレスラーになりたかった。(中略)
僕は、地味で渋いグラウンドレスリングを涙ながらに切り捨て、キャッチーで盛り上がり重視、わかりやすさ重視のレスラーにならざるを得なかった。苦渋の決断でした。』
『当時の僕は、新日本プロレスの伝統を守りたい、ストロングスタイルのプロレス、強さと闘魂を前面に押し出したプロレスをやらないといけないと思っていた。新日本プロレスを守っていくのは僕だという責任感があった。その一方で、僕の試合への評価はずっと低かったし、周囲からの風当たりも相変わらず強かったんです。』
著者はそれを、硬質な筆致で書いている。豊富な知識と膨大な取材量に裏打ちされた真実、そしてそれをできうる限り平等に書こうとする姿勢は、とても誠実で信頼できる。ともすればこういったノンフィクションは、やはり「怖さ」を伴った記述になる可能性もあるだろう。でも、著者のプロフェッショナリズムは、それを許さない。そしてそのプロフェッショナリズムはそのまま、「プロレスとは何か」「レスラーとは何か」という探求へと繋がってゆく。