1 老人たちの読書会
最初の老人は男だった。午前中にやってきた。
「ヤァヤァ、どうも、どうもでした」
朗々と声を響かせ引き戸を開け、大きな丸顔を覗かせた。すこぶる機嫌がよさそうだ。ソリ遊びをしてきたこどもみたいに笑っている。三和土のマットで立ち止まり、パン、パン、パン! 胸、腹、腿と叩いていって、まつわりついた雪を払い、ダン、ダン、ダン! 足踏みをして靴底の溝に挟まった雪を落とした。茶の冬靴を下駄箱に入れ、消毒液で手指を濡らして真っ直ぐ進み、肘掛け椅子に腰を下ろす。マスクを外し、あったかおしぼりで手を拭いた。メガネをおでこにずり上げて、まだほかほかのおしぼりに顔をうずめ、ダハーッと満足げにうめいたあと、トーストサンドセットAを注文し、「あれ? みんなは?」とあたりを見回したのだった。
「まだみたいですね」
安田松生も店内を見回した。六畳と四畳半、畳敷きの二部屋がふすまを開け放してひとつづきになっている。大正ロマン風の椅子席とソファ席がゆったりと配置され、丸形の石油ストーブに載せたやかんがシューシュー湯気を出していた。
喫茶シトロンは古い民家を改装した喫茶店だ。コンクリの土間には脚付きの下駄箱、短い廊下にはだれかの愛蔵書が並ぶ本棚と足踏みミシンが置いてある。場所は小樽だ。北海道小樽市。バス停でいえば「入船十字街」と「住吉神社前」のあいだに位置する。
「一時からと聞いてますが」
安田は大きな声で、ことさらゆっくりと言い、壁掛け時計を指差した。目の前の老人に、約束の時間を思い出していただき、現在の時刻を確認してもらおうとしたのである。
老人は、安田の指通りに壁掛け時計を見上げてから目を戻し、ウンウン、とうなずいた。安田もそれに倣うしかなく、一礼してカウンターに戻った。惜しいな、日にちは合ってんだけどな、と手を洗い、食パンをオーブントースターに入れた。
老人はショルダーバッグから紙の束を取り出し、立ち上がった。ホチキスで留めた書類を楕円形のテーブルにいそいそと並べ始める。鼻歌が聞こえてきそうな顔つきだ。彼を含めて六人分の席ができ、老人は、これでよし、というふうに腰に手をあてた。イッチ、ニー、サンと舌で湿らせた唇を動かして数え直し、莞爾として笑う。
安田はひっそりとかぶりを振った。
とてもじゃないが、あの人たちが全員ちゃんと集まれるとは思えない。
坂の途中で本を読む会――。
彼らのサークル名だ。坂のまち小樽に暮らす人々が人生という坂の途中で本を読み、大いに語り合う会だそうで、毎月一回、第一金曜の午後一時に集まっているらしい。
昨年からのコロナ禍で休会を余儀なくされていたのだが、三月になるのを待って再開の運びとなり、今日がその初回。
つまり、彼らは一年ぶりに集合するのだ。
これが、安田が全員参加を危ぶむ最大の理由だった。
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