引き継ぎのため、安田は三週間、美智留と同居した。こまごまとした喫茶店業務の説明のうち、美智留がひときわ心を砕いたのが、あの人たちのことだった。仕入れの間隔や分量、会計ソフトの使い方などは「自分でメモれ、そしてググれ」とスパルタ式だったが、あの人たちに関してはノートをつくってくれていた。よくしてあげてね、と何度も言った。くれぐれもよろしくと、函館に発つ前夜も。
上まぶたが深く窪んだ大きな目で見つめられ、瞬間、安田はドラマチックな気分になった。喫茶シトロンの電球色の照明が美智留の顔の骨格をやさしく浮かびあがらせ、ふと言葉少なになった美智留の臈長けた美しさを際立たせていた。もとより美智留は美形なのだが、顔立ちよりも口八丁手八丁のイメージが前に出てくるタイプで、安田にとっては血縁的にも俗称的にも「おばちゃん」以外のなにものでもなかった。初めて美智留の美しさに触れた、と思った。
景色がひらけ、爽やかな風に前髪を煽られたような気もした。いよいよ新しい生活が始まるという実感がふいにくる。
北のちいさなまちに住み、ひとりで喫茶店を切り盛りする。それは安田の前に忽然とあらわれた道標だった。思いもよらない方向への矢印だったが、「どう? やってみない?」と美智留から軽快に打診され、安田は「いいね、やってみたい」と即答した。自分でも驚くほど迷わなかった。とにかく、いったん、現状を変えてみたいと考えていたところだった。具体的なアイディアはなかなか浮かんでこなかったが、きっかけさえあれば、と思っていた。小樽行きは申し分のないきっかけだった。
いまいる場所から遠いというのがまずいい。雇われだから収入が安定しているし、ひとりで働くのだから人間関係の煩わしさがほぼゼロというのもありがたかった。無口で愛想なしのカフェバイト安田は店長に「安田くんの敬語ってちょっとなんか慇懃無礼入ってるよねー」と嫌味を言われたりするが、喫茶店のマスター安田ならその心配もない。
思春期以降一貫して安田が疎んじているのが、時と場合によってゼリーみたいにぷるぷる揺れる自己評価だった。承認されても否認されてもぷるぷると揺れ、どっちにしたって鬱陶しいことこのうえない。つねにフラットでありたい安田は、なるべく自己評価がぷるぷるしないよう周りから受ける刺激を最小限にすべく、バリアをつぎはぎしているうち、そこそこの人見知りに仕上がっていた。
そして、なんといっても美智留からの誘いということ。真面目でおとなしい勤め人ばかりの親族のなかで、美智留はだれともちがっていた。安田にとってはこどものころから身近なスターであり、自由気ままというものの象徴だった。その美智留に後継者として喫茶シトロンの店長を任せられるほど見込まれたという、ささやかかもしれないが力強い晴れがましさが、安田を埼玉から北海道に移動させる大きな原動力になった。
さらに美智留の大事にしている客たちを託されるという光栄にも浴し、まだ見ぬあの人たちへの、なんとなくの親愛の情が芽吹いた。ほかに覚えなければならないことがどっさりあって、美智留のつくってくれたノートを読み込む余裕はなかったし、深くかかわる気もなかったが、丁重にもてなそうとは思っていた。その矢先に、不要不急の外出自粛の日々が本格的に始まったのだった。
この続きは、「別冊文藝春秋」3月号に掲載されています。
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