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青葉を振るわせ、風が吹いてくる

青葉を振るわせ、風が吹いてくる

文:島内 景二 (国文学者)

『影ぞ恋しき』(葉室 麟)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #歴史・時代小説

『影ぞ恋しき』 上(葉室 麟)
『影ぞ恋しき』 下(葉室 麟)

『影ぞ恋しき』における蔵人の戦いが迫真的であるのは、松平清武(きよたけ)(越智右近[おちうこん])の存在が大きい。六代将軍家宣の実弟で、三代将軍家光の最後の血脈。生母の身分が賤しかったために苦しみ、そのような思いをせずに人々が暮らせる「正徳(しょうとく)の治(ち)」を、兄と共に実現しようとした。

 ただし、「正徳」の裏側の闇の部分を、清武は一身に担う。正しい政治を実現するための必要悪は、どこまで許されるか。そして、誰が、どのように、その責任を取るのか。清武が抱え込んだ難問は、ドストエフスキーの作品とも近い。あるいは、松本清張のテーマとも通じている。葉室麟の戦いは、ドストエフスキーや松本清張の戦いの継続なのでもあった。

 その清武の前に、純粋無比の蔵人が立ち塞がる。二人は、武士道の光と影を担っており、分身であり、鏡像である。

 蔵人と清武が、それぞれ宣教師シドッチと対面する場面は、印象深い。二人の類同性が、はっきりと浮かび上がっている。ちなみに、葉室は、キリスト教主義の教育を行う西南学院大学の出身である。シドッチには、深い思い入れがあるに違いない。

 新渡戸稲造の『武士道』が欧米人に共感されたのは、武士道とキリスト教の思想的近似性が斬新に感じられたからだろう。これは、キリスト教と武士道が、どちらにどちらを「接(つ)ぎ木(き)」したかというレベルなのではない。東洋と西洋の二つの思想の共通点を発見することが、人間に真実の幸福をもたらす理想社会の第一歩になるのだ。

 聖母マリアが、蔵人にとっては咲弥に見え、松平清武にとっては母親と思えた。同じように、蔵人にとっての「義」は、シドッチにとっての「カリタス」(愛徳)であり、松平清武にとっての「正徳」である。

 葉室麟の小説に登場する魅力的な男たちと女たちは、真実の幸福を求めて真率な「魂の会話」を交わして戦い、和解する。彼らの発する「魂の声」こそが、葉室麟から読者に向けて叫ばれた、「白鳥の歌」である。ああ、声ぞ恋しき。

 この解説の結びとして、後藤帰一(きいち)句集『樟若葉(くすわかば)』に触れたい。後藤帰一の本名は、後藤喜一。彼は、中日新聞社東京本社(東京新聞)文化部記者として、葉室麟を担当し、二〇一九年に退社した。本書『影ぞ恋しき』も、後藤の担当だった。合気道と俳句を愛する後藤は、葉室と、どのような信頼関係で結ばれていたのだろうか。

『影ぞ恋しき』の最終部では、自分の信ずる価値観をぶつけ合った蔵人と清武が、久しぶりに顔を合わせる。

 蔵人は清武のことを、「友であったような気もするが」と、とぼける。清武は蔵人のことを、「懐かしき友である」と断言する。そして、葉室の「白鳥の歌」は、「新緑眩しい、薫風の候のことである」と書き納められた。

『樟若葉』から、三句を引きたい。

  風薫る赤子泣いても笑つても

  道場は禅寺のなか風薫る

  薫風に色をつけたる野の起伏  帰一

 葉室には、「風」という言葉を含むタイトルの小説が多い。その名も『風かおる』もある。葉室麟は、風の人だった。私は、葉室の作品を読み返すたびに、彼が風に化身して、この世に渡ってきた薫りをかいだように思う。後藤も、葉室との交流で、風を感じていたのではないか。

「葉室風(はむろかぜ)」は、これからも私たちの心の中や、二十一世紀の地球の上を吹き渡る。そして風は、私たちから葉室のほうへも吹いてゆく。

文春文庫
影ぞ恋しき 上
葉室麟

定価:803円(税込)発売日:2021年04月06日

文春文庫
影ぞ恋しき 下
葉室麟

定価:781円(税込)発売日:2021年04月06日

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