『いのちなりけり』『花や散るらん』に続く『影ぞ恋しき』で、「雨宮蔵人(あまみやくらんど)」三部作が完結した。葉室麟が六十六年十一か月の生涯の最後に書いた『影ぞ恋しき』は、彼の「白鳥の歌」である。
鳥たちは激しい風や厳しい環境の中で、互いに励まし合うかのように鳴き交わす。この書物の中からも、登場人物たちの魂の叫びが聞こえてくる。その声は、愛・信・義・美・真などの抽象概念を、もしも音にしたらこうなるのだろうか、と思われる懐かしさに満ちている。時代の嵐の中から、魂の発する声を聞き取り、読者に手渡そうとして、葉室麟は小説を書いた。
主人公の雨宮蔵人は肥前の小城(おぎ)出身で、武道の達人。作者の理想とする人間像である。
妻の咲弥(さくや)は、富士山(浅間神社)の女神コノハナノサクヤビメの化身かと思われる。桜の花の精でもある。
快男児・蔵人は、愛する妻と、信ずる友たちと手を携え、「義」を守るために、戦いの人生を疾走する。時あたかも天下泰平の江戸時代。徳川綱吉と柳沢吉保の主導で、絢爛たる元禄文化が出現した。ところが、まことに不思議なことに、平和と引き替えに「武士道」の意味が見失われ始めた。武士道以前の文化理念を体現する京都の皇室や公家の文化も、幕府と緊張関係にある。幕府の内部にも、水戸光圀や徳川家宣(いえのぶ)(綱豊[つなとよ])などの対抗勢力がある。
武士としての存在意義と、人間としての存在価値が齟齬し始めたのも、この元禄の頃だった。葉室麟が雨宮蔵人に託したのは、武士が武士であることの根源的な意義を見つけ、実践してほしい、という願いだった。これは、人間が人間であることの意義は何か、という問題と深く関わっている。
武士道の本質を問題提起したものが、二つある。一つは、肥前鍋島藩で書かれた『葉隠(はがくれ)』。もう一つは、江戸で起きた赤穂義士(赤穂浪士)の討ち入り。武士として生まれた自分は、何のために生きるのか。誰のためになら死ねるのか。自分がこの世に生きた証しを、どのように残したらよいのか。その答えを、皆が暗中模索で探しあぐねていた中で、雨宮蔵人だけは迷わずに「義」だと、明言する。その何という爽快さ。
価値観が激動する時代を、美しい自然や愛する人々を守るために、自らの死を恐れずに戦い抜いた雨宮蔵人は、その生き方それ自体が「武士道」と「人間道」の手本だった。
そのような蔵人の生き方の原型には、海音寺潮五郎『おどんな日本一』があると思う。海音寺は、葉室が敬愛した九州出身の歴史小説家である。葉室が晩年に力を注いだ西郷隆盛も、海音寺が残した宿題を引き継いだものだろう。
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