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宮本武蔵に下った「呪詛者捜し」の密命。呪いをかけられたのは他ならぬ徳川家康だった

宮本武蔵に下った「呪詛者捜し」の密命。呪いをかけられたのは他ならぬ徳川家康だった

木下 昌輝

電子版37号

出典 : #別冊文藝春秋
ジャンル : #小説

「別冊文藝春秋 電子版37号」(文藝春秋 編)

 脳裏によぎったのは、逐電した武蔵の弟子たちの声だ。

『厳しいだけの稽古では人はついてきませぬ』

『印可状をもっと容易く取れるようにすべきです』

 武蔵の体が強張る。汗を拭うふりをして表情を隠した。

 近くにある道場は、多くの大名や家老たちを弟子にもつ。なぜ繁盛しているのか、武蔵には不思議だった。半端な技量にもかかわらず、印可を受けている弟子が多くいる。彼らは、例外なく身分の高い武士だった。稽古風景を覗けば、剣を振ることよりも人脈を育むことに熱心な門弟の姿が目についた。いや、道場にいるだけましだ。ほんの数度稽古をつけただけで印可をもらった大名や家老もいるときく。道場は大名や高名な武士がどれだけ弟子にいるかで箔がつき、大名はもらった免許によって優れた武士だと喧伝できる。

 欺瞞に満ちたやりとりで流派は弟子を増やし、大名は武名をえている。武蔵に同じ真似などできようはずもない。

「無理だ。己の剣は……時代にそぐわない」

「果たしてそうでしょうか」

 否定する久遠の声に、武蔵は我に返った。

 そういえば、なぜ久遠は武蔵の剣を学んでいるのか。彼ほどの技量があれば、もっと高名な剣術の免許皆伝をえられる。道場の中で人脈を培えば、仕官の道は格段に広がり、かつての家名を復活させることも容易いはずだ。

「水野家に招聘された折、武蔵先生は家老や足軽の区別なく叩きのめしたと聞きました」

 水野家は、三河国刈谷の三万石の大名だ。家康の母方の従弟の水野勝成が当主である。家臣には家康との縁戚の者も少なくないが、構わずに武蔵は厳しい稽古をつけ、何人も悶絶させた。

「その話を聞いた時、痛快に思いました。昨今は、身分によって稽古を加減する者が多くおります」

 武蔵はただ当たり前のことをしただけだ。戦場で生き残る術を、乞う者に等しく教えた。が、その剣は受け入れられなかった。面目を潰されたと家老の怒りをかい、水野家を追い出された。後日、水野家を訪れた剣客は扶持を与えられたという。その門弟の技を見たことがあるが、戦場の役に立つものとは思えなかった。

「己の剣は、水野家では野良犬の剣だと笑われている」

 自嘲の言葉を強く吐き出していることに気づき、武蔵は狼狽えた。だが、自制できない。

 なぜ、己より劣った技が敬われるのか。

 なぜ、正しい剣を極める己が困窮せねばならぬのか。

「武蔵先生の剣はいつか人を救います」

 驚いて、久遠を見た。

「武蔵先生の剣には身分の別がありませぬ。百姓であろうと将軍であろうと変わりませぬ。私はそのことに救われました」

 久遠の顔は笑っていたが、目には悲しげな光が宿っていた。

「私の父が仕えた佐野家は八万石の知行をもちながら、関ヶ原の後には数千石にまで減らされました。同じく伏見城で討ち死にした鳥居家は、逆に四万石から十万石の加増です」

 理由は、鳥居家が徳川譜代だからだ。一方の久遠の父が仕えた佐野家は外様だ。佐野綱正は、三好家、豊臣家と遍歴した後、関ヶ原の直前に家康に仕えた。関ヶ原の合戦後、旗本に転落し、佐野綱正の一族だった久遠は牢人を余儀なくされた。

「同じ伏見城で討ち死にした大名にも身分の別があります。譜代と外様では命の重さがちがうのです。それが当たり前なのが、徳川の世です。ですが、武蔵先生はちがいます。あなたの剣の前には、譜代も外様もない。将軍や大名、足軽であってもなんら変わらない。武士や百姓や町人の別もない。宮本武蔵の前では、すべて等しいのです」


この続きは、「別冊文藝春秋」5月号に掲載されています。

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文藝春秋・編

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