水上交通都市だからこそ
そして第二話「本所・櫻屋敷」で、『鬼平』の映し出す「江戸」の景色は一つの完成形となります。
「本所~」の原作には次のような記述があります。
「三ツ目橋をくぐり、平蔵をのせた小舟は、新辻橋の手前から左の堀川へまがって行く。
この川が横川である。
横川を北へ……入江町の河岸を左にながめつつ、舟はゆっくりとすすむ。
やがて、右手に法恩寺の大屋根が見え、そして、舟は出村町へさしかかった。
平蔵は、舟を横川町沿いに寄せさせた」
池波正太郎の描く江戸は、水上交通都市としての側面も大きくあります。路地のように細かく掘割が張り巡らされ、そこを小舟が往来する。そして、水の流れが人々の営みに深く関わっていると同時に、作品世界に情緒をもたらしています。
そうした江戸の景色を、この第二話は見事に映像化しているのです。
ロケーションが行われたのは、滋賀県近江八幡市にある「八幡堀」。安土桃山時代に築かれた石垣造りの水郷が保存されており、往時の江戸の情感を今に伝えています。
物語の序盤と終盤の二度、ここは使われています。どちらも、平蔵が同心・酒井(篠田三郎)と小舟に乗って移動する場面です。いずれも、数十秒ほどしかありません。
橋と同様、掘割も松竹の撮影所のオープンセットにはあります。短い移動シーンですので、そこで撮っても構わないはずです。
が、本作はそうしませんでした。岸に沿って続く石垣と石畳の歩道、周囲に建つ板塀の蔵、掘割にかかる橋――情感の奥行きが撮影所の掘割とは比べものにならないのです。「現代になって新たに再現された江戸の景色」では表現しえない、長く守られてきたからこその豊かな景色がそこにはある。それは、「池波正太郎の水上交通都市=江戸」そのものの景色でした。
そのため、たとえ短い場面でも八幡堀での舟移動を撮ることで、作品世界全体が池波の目指した江戸情緒に包まれているように思えてくるのです。そして、以降の『鬼平』でもちょっとした移動や会話のシーンで、小舟や掘割にかかる橋や石畳が使われるようになり、この景色は『鬼平』を象徴するキービジュアルとなっていきました。
なお、八幡堀の掘割は現在は観光船が往来しており、石畳の歩道も歩けます。そのため、一般の観光客でも「鬼平」ワールドにトリップできるのです。『時代劇聖地巡礼』の取材では私もそこを歩き、「本所~」で平蔵と酒井が歩いたのとほぼ同じアングルで写真を撮ってもらいました。そんな、まさに「聖地巡礼」を楽しめる場所でもあります。
西の湖で舟に揺られて
「本所~」では、この近辺でもう一つ重要な場面が撮られています。
それは、平蔵が再会した剣友・岸井左馬之助(江守徹)と互いの青春時代を回想するシーン。二人は、互いに想っていた初恋の女性・ふさ(萬田久子)の思い出を語り合います。二人は想いを告げることなく、ふさは呉服問屋へと嫁入りします。
この嫁入りも、水路を小舟に乗って――という映像で描かれています。そして、二人は橋の上から言葉もなく見送るのみ。
ただの「水上交通」としての描写だけでなく、人の力ではどうにもならない儚さを「水の流れ」が象徴しているかのように映し出され、青春の苦い悔恨、そしてこれから待ち受けるふさの運命の無常を伝える場面になっていました。
ふさを乗せた小舟が浮かぶ水路は、先の八幡堀とは全く異なる景色になっています。八幡堀が石垣や石畳で整備された「都市に流れる掘割」なのに対し、この場面は周囲を葦が生い茂る、天然の水郷のように映っています。そのため、賑やかな都会ではない、町はずれの雰囲気が出ています。
隅々まで全てが都市として整備されていて賑やかな都会というわけではない、「草深い江戸」。能村プロデューサーが狙った、もう一つの「江戸の景色」が広がっていました。
この場面は「西の湖」と呼ばれる一帯で撮影されています。
八幡堀から車で十分弱のところにある、琵琶湖に沿った天然の水郷で、かつて安土城はこの畔に建っていました(安土の辺りの水郷は今は埋め立てられています)。
この西の湖は広大な面積を葦が生い茂っており、移動手段のためその間を迷路のように水路が張り巡らされています。ラムサール条約で景観保護が義務付けられているため、開発の手が触れることなく、天然の水郷がそのまま残っているのです。「草深い江戸」の情感を出す上で、この上ない場所ということができます。
しかも、辺り一面の葦原は春~夏は青々、秋は黄金、冬は枯れた灰色と季節ごとに全く異なる色合いを見せるため、それに合わせてさまざまな場面を撮ることができます。
『鬼平』でも、この後も何度も登場しますが、この西の湖といえば『剣客商売』のイメージが強くなります。
主人公の秋山小兵衛(藤田まこと/北大路欣也)は鐘ヶ淵の隠居宅から舟で大川を下り、浅草や深川や千代田界隈に出ます。この時、江戸の外れにある鐘ヶ淵からの舟移動の場面が、この西の湖で撮られています。女房・おはる(小林綾子/貫地谷しほり)の漕ぐ小舟に揺られる小兵衛の背景に広がる黄金の葦原――という映像は『剣客商売』を象徴するものといえるでしょう。
ここは手漕ぎ舟をはじめ観光用に舟下りをさせてくれる業者が複数あります。そのため、葦の中を舟に揺られながら小兵衛の悠々自適な隠居生活に想いを馳せることができます。私も今回の取材で試しましたが――極楽でした。
近江八幡の狭い範囲内に『鬼平犯科帳』『剣客商売』のキービジュアルとなる「水の景色」があるわけです。「池波正太郎の聖地を巡る」となりますと、東京の下町巡りを思い浮かべる方も少なくないでしょう。が、そこには当時の景色は微塵もありません。実は近江八幡こそが、「池波正太郎の聖地」なのです。
しかも、京都の撮影所からは車で片道一時間半ほど。そのため、朝出発して昼過ぎまで撮影しても、撮影所に戻ってまた別の場面が撮れる。このアクセスの良さも、重宝される要因の一つになっています。
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