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76年前のあの日を体感できる「日本のいちばん長い日タイムライン」まとめ(1)――半藤一利『日本のいちばん長い日』

76年前のあの日を体感できる「日本のいちばん長い日タイムライン」まとめ(1)――半藤一利『日本のいちばん長い日』

#日本のいちばん長い日タイムライン 8月6日から8月10日まで


ジャンル : #歴史・時代小説 ,#ノンフィクション

 終戦に至るまでの中枢部の動きを、証言と取材をもとに描いた『日本のいちばん長い日』。その息詰まるシーンを、同日同時刻に #日本のいちばん長い日タイムライン としてツイートします。

 この記事では、8月6日から8月10日までの #日本のいちばん長い日タイムライン をまとめました。

 76年前の暑い夏、真夜中に、明け方に、命を懸けて行動した日本人をぜひ体感して下さい!


1945年8月6日

午前8時15分

 八月六日、広島の朝は、むし暑い雲もほとんどない快晴であった。(略)

 八時十五分、烈しい閃光とともに大爆発が起った。一発の爆弾が四十万の人間にもたらしたものは、〈死〉の一語につきる。広島市は瞬時にして地球上から消えた。

広島に投下された原子爆弾

午後7時ごろ

 陸軍省から内閣書記官長迫水久常(さこみずひさつね)をとおして、内閣に広島の第一報が知らされたのは午後も遅くなってからである。

迫水久常

 天皇もまた、同じころ蓮沼蕃侍従武官長から広島市全滅の報告をうけた。たった一発で広島市が死の町と化したという。天皇は顔を曇らせたが、それ以上たずねようとはしなかった。


1945年8月7日

 アメリカからのラジオ放送はトルーマン大統領の声明として「六日、広島に投下した爆弾は戦争に革命的な変化をあたえる原子爆弾であり、日本が降伏に応じないかぎり、さらにほかの都市にも投下する」と伝えてきた。


1945年8月8日

午後4時40分

 その日の午後、東郷外相が決意の色をうかべて参内してきた。(略)天皇は低い声で外相にいった。

東郷茂徳

「このような武器がつかわれるようになっては、もうこれ以上、戦争をつづけることはできない。不可能である。有利な条件をえようとして大切な時期を失してはならぬ。なるべくすみやかに戦争を終結するよう努力せよ。このことを木戸内大臣、鈴木首相にも伝えよ」


1945年8月9日

午前3時

 首相官邸の卓上電話が鳴った。迫水書記官長の半ば眠っている耳に投げこまれたのは、同盟通信外信部長の声であった。「たいへんです! サンフランシスコが、ソ連が日本に宣戦布告をした、と放送しましたぞ」

午前5時

鈴木貫太郎

 夜が明けると、さまざまな情報と閣議での発言草稿をたずさえ、書記官長は首相私邸に飛んだ。鈴木首相は冷然として、「来るものが来ましたね」といった。

「この戦さは、この内閣で終末をつけることにしましょう」(略)

 首相のこの言葉は、そんな常識を無視し、みずから火中の栗を拾うことを決意したものであった。

午前10時30分

 急迫した情勢下で最高戦争指導会議が宮中でひらかれた。鈴木首相がいきなりこういった。

「広島の原爆といいソ連の参戦といい、これ以上の戦争継続は不可能であると思います。ポツダム宣言を受諾し、戦争を終結させるほかはない」

 米内光政海軍大臣が口火をきった。

米内光政

「黙っていてはわからないではないか。どしどし意見をのべたらどうだ。もしポツダム宣言受諾ということになれば、これを無条件で鵜呑みにするか、それともこちらから希望条件を提示するか(略)」

 会議は紛糾した。しかし、それは静かに沈んだ調子で語られていた。雄弁をふるうものは一人もなく、暗澹たる空気のうちにすすめられた。長崎に第二の原爆が投下されたのは、この会議中のことであった。

午後6時

 阿南陸相に、陸軍部内からの突き上げは時々刻々と激しさをました。閣議中に呼びだされた陸相は、参謀次長河辺虎四郎中将から、全国に戒厳令を布き、内閣を倒して軍政権の樹立をめざすクーデター案をひそかに提示されていた。

 しかし、阿南は動かなかった。そして、かりに戦争を終結するにしても、四条件を連合国に承知させることが絶対に必要なことを、静かに、だが力強く閣僚たちにいいつづけた。

 手足をもぎとられて、どうして国体を守ることができようか。

「このまま終戦とならば、大和民族は精神的に死したるも同然なり」

阿南惟幾

 陸相はそう主張して不動であった。

午後10時

 午後十時、第一回からひきつづいてえんえん七時間に及んだ第二回閣議を、鈴木首相はいったん休憩することとした。もう一度、最高戦争指導会議をひらき、政戦略の統一をはかり、再度閣議をひらくことにする、と首相はいった。

 この最高戦争指導会議を御前会議とし、一挙に聖断によって事を決するというのが、首相の肚であった。

午後11時50分

 ポツダム宣言受諾をめぐる御前会議が、御文庫付属の地下防空壕でひらかれた。出席者は、六人の最高戦争指導会議構成員のほかに平沼騏一郎枢密院議長、そして陸海両軍務局長と書記官長が陪席した。

 十五坪の狭い部屋は、換気装置はあったが、息詰まるように暑くるしかった。(略)

 天皇を前にしての、台本のない議論は、低い声ではあったが、真剣そのものにつづいた。


1945年8月10日

午前2時

「議をつくすこと、すでに二時間におよびましたが、遺憾ながら三対三のまま、なお議決することができませぬ。この上は、まことに異例で畏れ多いことでございまするが、ご聖断を拝しまして、聖慮をもって本会議の結論といたしたいと存じます」

 首相に乞われて、天皇は身体を前に乗りだすような格好で、静かに語りだした。

昭和天皇

「それならば私の意見をいおう。私は外務大臣の意見に同意である」

 一瞬、死のような沈黙がきた。天皇は腹の底からしぼり出すような声でつづけた。

「空襲は激化しており、これ以上国民を塗炭の苦しみに陥れ、文化を破壊し、世界人類の不幸を招くのは、私の欲していないところである。私の任務は祖先からうけついだ日本という国を子孫につたえることである。(略)忠勇なる軍隊を武装解除し、また、昨日まで忠勤をはげんでくれたものを戦争犯罪人として処罰するのは、情において忍び難いものがある。しかし、今日は忍び難きを忍ばねばならぬときと思う。明治天皇の三国干渉の際のお心持をしのび奉り、私は涙をのんで外相案に賛成する」

午前2時30分

 降伏は決定された。八月十日午前二時三十分をすぎていた。その夜はかがやかしい月が中天にかかり、宮城の庭の老松の葉影が一本ずつ数えうるほど明るかった。

午前4時

 細かい議論はあったが、閣議は御前会議の決定をそのまま採択した。(略)午前四時近く、全閣僚は必要な文書に花押して閣議は散会した。阿南陸相も躊躇なく花押した。東郷外相の頭は心労のため、真ッ白に変じていた。

「阿南、ずいぶん苦しかろう。陸軍大臣として君みたいに苦労する人はほかにないな」

「けれども安井、オレはこの内閣で辞職なんかせんよ。どうも国を救うのは鈴木内閣だと思う。だからオレは、最後の最後まで、鈴木総理と事を共にしていく」

鈴木貫太郎内閣

午前7時

 国民がようやく寝床をはなれはじめるころ(略)「天皇の大権に変更を加うるがごとき要求は、これを包含しおらざる了解のもとに」ポツダム宣言を受諾する旨の電報が、中立国のスイスとスウェーデンの日本公使に送られていった。

 陸軍中央は聖断下るを聞いて驚愕した。まったく予期しないではなかったが、いちばん恐れていたものが現実となって、幕僚は猛り狂ったのである。

午前9時

 午前九時、陸軍省各課の高級部員を集め、阿南陸相は「厳粛な軍紀のもとに一糸紊れず団結せよ」と訴えた。悲壮な面持であった。

「この上はただただ、大御心のままに進むほかはない。和するも戦うも、敵方の回答のいかんによる」(略)

「大臣は進むも退くも阿南についてこいといわれた。それでは大臣は退くことも考えておられるのか」

 地下壕に一瞬冷たいものが流れた。徹底抗戦の大方針はどこへいったのか。

 大臣は声をはげましていった。

「不服なものは、まず阿南を斬れ」

午後7時

 日本帝国は降伏へ向って歩みはじめた。同盟通信は短波で午後七時(ワシントン時間午前五時)すぎポツダム宣言受諾の報を流した。


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文春文庫
日本のいちばん長い日 決定版
半藤一利

定価:770円(税込)発売日:2006年07月07日

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