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<永遠の向田邦子> 向田和子×伊吹有喜 五十歳のスタートライン

<永遠の向田邦子> 向田和子×伊吹有喜 五十歳のスタートライン

向田 和子 ,伊吹 有喜

出典 : #オール讀物
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

 向田 そうですね、はりつめた緊張感。あとは本当に女が怖い(笑)。

 伊吹 脚本の世界も怖いと同時に感じました。小説は地の文と会話から成り立っていて、その両方の調和が大事なんですが、脚本では地の文がなくてト書きのみ。最初は軽く考えていて、生き生きとした感じのセリフとト書きだったら、小説よりも脚本の方が早く書けるだろうと思っていました。ところが映像と会話ですべてを表現するというのは、小説とは全然違う表現方法で難しい。そんなに簡単なものではなかったんです。

 向田 姉も最初の頃の脚本は、本当に下手くそだったみたいですよ。演出家の久世(光彦)さんから聞いたんですが、一時間物の中で、場面が一つも変わらないで物語が進んでいく。当時すでに役者としてテレビの世界で重鎮だった森繁(久彌)さんが、「変なお姉ちゃんを連れてきちゃったな」と―最初はどうにもならなくて、頭を抱えたそうです。もっとも、妹に悪口ばかりじゃ申し訳ないと思ったのか、「でも一つか二つ、誰にも書けないようなセリフがあって、それを生かそうという気にはなった」という久世さんの言葉が印象に残っています。

向田邦子さん

 伊吹 おそらく向田さんは脚本を書いていくうちに、ドラマの限られた時間内で、きっちり盛り上がりを作ってから最後はきれいに着地する。さらには最終回に向けてテーマ性、ストーリーの展開、面白い要素、登場人物の深みなど全ての要素を、決まった枚数の中に毎回、伏線として織り込んでいく技術を会得されたのではないでしょうか。これは小説を書く技術にも共通するものです。

 私は若い頃は小説をどうしても最後まで書き終えることができず、未完のままがずっと続いていました。ところが二十代の終わりに脚本の投稿生活をしていて、原稿用紙百枚の規定に対し、四百枚を書いて縮めるのに四苦八苦していた際、それを読んだ夫から「長編小説の内容だから、無理やり縮めることはない。この題材は小説で書くべきだ」と言われ、三十代で再び小説に戻りました。その時、脚本で学んだ、最終回に向けて書いていく技術が小説に生かせたんです。

 向田 ああ、なるほどね。

 伊吹 ただ脚本から小説に移行するのは大きな問題が一つあって、それは地の文の問題です。小説は何気ない地の文の中に、登場人物の心情を託したり、風景描写に時代の匂いや季節感を入れたり、会話につながる情報を入れなくてはいけない。それを感じさせないようにさりげなく、作品の雰囲気に合った形で。また、脚本であれば誰が喋っているかは、セリフの上に示されていますが、小説は地の文の段階で誰のセリフか分かるように書かなければならないのも難しい。そこは向田さんでも悩まれたのではないかと拝察しますが、今、作品を読むと、地の文もただただ素晴らしいと思うばかりです。

お店の中をウロウロと

 向田 脚本から小説へ転向する時、姉がずいぶん悩んだだろうというのはその通りだと思います。最初の短編連作『思い出トランプ』の担当者は、新潮社の横山(正治)さんという方だったんですが、原稿用紙二枚くらいを書いて、それをまずお渡ししていたんです。お店(ままや)の開店前にそこで待ち合わせをして、その場で原稿を読んでチェックしてもらうんだけど、姉はすごくドキドキするらしく、お店の中をウロウロ歩き回っていました。やはり姉は脚本と小説が違う部分で、納得がいっていなかったんですね。

 だからOKが出ると、私がこれまで見たことがないような笑みを満面に浮かべていました。二人の会話がよく聞こえたわけではないんですけど、これで続けられる、この調子で続けていいんだ、って。横山さんとは、その後も何度か「ままや」でお会いしましたが、褒め上手の方でしたね。その意味でも、うちの姉は運がよかったんだと思うんですよ。

小料理屋「ままや」で働く和子さん(右)とカウンターの邦子さん

 伊吹 出会いって大事ですよね。

 向田 当時の「小説新潮」の編集長は、姉と実践女子専門学校で同級生だった、川野(黎子)さんでした。川野さんは姉に対してあれこれ細かく言うことはしなかったけれど、本当のところではズバッと言ってくださる方でした。姉がせっかちなことや、褒めたら木に上るようなタイプだということも見越して、横山さんを担当編集につけてくれた気がします。

 伊吹 向田さんの小説を読んでいると、時々、ドキドキするような表現が出てきます。たとえば長編小説『あ・うん』(文春文庫)の中に、新品の靴を「若いけものの匂いがした」と描写する。その一文にすごく情緒があって、その感覚と言葉の選択に独自のものを感じます。おそらく編集の方々は、そうした感性にも魅せられたのだと思います。

 向田 本を読むのは好きでたくさん読んでいたかもしれませんが、それまではエッセイと脚本しか書いていなかったわけで、いざ自分が小説を書く時は色々と勝手が違ったはずですよね。編集者の方との出会いで「姉の書くものがこんな風に変わっていくんだ」と、私はその様子を面白く見守っていました。

 エッセイも書きたい題材が書きはじめた頃とは違ってきて、突然、質問が飛んできたりしました。「この頃、気になった女優さんはいる?」とか「戦争で一番記憶に残っていることは何?」とか、普通に家で料理を作っているような、何でもない時に聞かれるんです。パッと答えないと機嫌が悪くなるので、「エッ、戦争? おばあさんの背中」と答えたのが、『父の詫び状』(文春文庫)に収録されている「ごはん」に出てくるエピソードで、三月十日夜、東京大空襲での出来事です。

 伊吹 東京大空襲のことは、自分が『彼方の友へ』(実業之日本社文庫)を書く時に、生存者の方の記録やアメリカ側の記録も含めて、ずいぶん色んな資料を読みました。昼間のように明るくなっている夜空を、想像もつかない数の飛行機が埋め尽くしたというのは、尋常ではない状況ですよね。

 向田 本当に手が届くほどの低空で飛行機が飛んでいるのに、ここでは焼夷弾を落とさないだろうと平気で見ていたり、今考えてみたら、完全に感覚が麻痺していました。異常事態に犬の鳴き声も狼のような獣の声で、赤ん坊の泣き方も生半可ではなかった。そういうまともじゃないことが起きるのが戦争です。

 私はあの夜、もしかすると死んでいたんですよ。兄(保雄さん)と一緒に、水に浸した夏掛けの布団を、火除けのため頭に被って逃げたんですが、予め行く場所は油面小学校のプールの方だと決まっていました。ところが途中で反対方向へ逃げて行く人が多いことに兄が気づいて、逆方向を目指したから命拾いしたんです。空襲警報が解除されて帰る時に、ずいぶん遠くの知らない場所まで来てしまって、お腹も空きました。そこで兄が「カンパン食べよう」と言ってくれて、私が「でも食べたら叱られる」と答えたら、「僕が責任持つから」って。長い間、カンパンのことしか覚えてなかったんですが、兄が亡くなってから、あの夜、私は兄に助けられたんだ、と改めて気づきました。

文春文庫
阿修羅のごとく
向田邦子

定価:814円(税込)発売日:1999年01月08日

文春文庫
あ・うん
向田邦子

定価:704円(税込)発売日:2003年08月01日

文春文庫
父の詫び状
向田邦子

定価:726円(税込)発売日:2006年02月10日

文春文庫
隣りの女
向田邦子

定価:660円(税込)発売日:2010年11月10日

単行本
雲を紡ぐ
伊吹有喜

定価:1,925円(税込)発売日:2020年01月23日

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