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<永遠の向田邦子> 向田和子×伊吹有喜 五十歳のスタートライン

<永遠の向田邦子> 向田和子×伊吹有喜 五十歳のスタートライン

向田 和子 ,伊吹 有喜

出典 : #オール讀物
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

 伊吹 でもそうやって思い出されたということは、忘れていたわけではなく、記憶の奥底に大事なこととして、しまわれていたのではないでしょうか。

思いもよらなかった記憶

 向田 伊吹さんの書かれた『彼方の友へ』の冒頭に、自分の「ハツ」というカタカナの名前が嫌で、いつもは「波津子」と書いている、大正生まれの女性が登場しますよね。

 伊吹 はい。当時は「子」がついているというのが、ハイカラだったんです。

 向田 この小説を読むまで思い出すこともなかったんですが、私は昭和十三年生まれで、その年代は「和子」という名前がすごく多いんです。小学校の帰り道で「和子ちゃん」と呼ばれたら、二、三人が振り向くような感じで。

 伊吹 私の伯母も和子です。

 向田 あまりにもありふれた名前が安易に思えて、母になぜ和子という名前を付けたか聞いたことがあります。そうしたら母はとても嬉しそうに、「和子ちゃんは一番年下だから、大きくなって家族が喧嘩をした時でも、あなたが和ませられるように和子と名づけたのよ」と言ったんです。

向田三姉妹

 伊吹 昭和や平和の「和」ではなく、和みの「和」だったんですね。

 向田 その時は、自分が誰かを和ませることなんて出来るはずがないと思ったんだけれど、母がスラスラ答えてくれたことが嬉しくて。そしてその後、「わたしは『せい』という名前が嫌なのよ。やっぱり『子』がつくのはいいわよね」と言った母の姿が、『彼方の友へ』を読んだ時に、久しぶりによみがえりました。

 普段はそんな風に小説は読まないんだけれど、『犬がいた季節』(双葉社)の神戸の震災の場面では、あの時に神戸の友人に電話をしてもがらなくて心配していたら、二日後に本人が電話をくれたことを思い出しました。私はもうじき八十三歳の遅すぎる終活をしているんですが、伊吹さんの小説が、まったく想像もしないところで、親や友人との思い出を呼び覚ましてくれて、本当にありがとうとお礼を伝えたかったんです。

 伊吹 とても嬉しいお言葉です。

 向田 『雲を紡ぐ』(文藝春秋)については、私も編み物が大好きで、ホームスパンという手仕事が好きだし、盛岡に住んでみたい、素敵な喫茶店に行ってみたいと、何度も思いました。この程度の感想で何だか申し訳ないんですが、お祖父さんが主人公の美緒に、自分の色を決めるように言いますね。美緒がすごく迷って、最終的に決めていく過程をとても好きになりました。高校生直木賞に選ばれたというのも、よく分かります。

分かりすぎてしまっていた

 伊吹 私にとって向田さんの作品は、まず脚本の『阿修羅のごとく』が鮮烈ですが、エッセイからも多くのことを受けとりました。人間というのは清らかな時もあれば、そうでない時もあり、きれいな格好をしている時もあれば、つっかけ履きの時もある。そうした人間の表や裏、人生の哀歓をすべて見通しつつも、「そういうものだよね」という温かいまなざしを感じて、私は脚本を勉強している時はもちろん、作家になってからも励まされてきました。さらにもう一冊を挙げると、実は今日も持ってきたんですが、和子さんの書かれた『向田邦子の手料理』(講談社のお料理BOOK)も、新刊の時に初版で買っています。

 向田 本当ですか。

 伊吹 二十代の頃から何度か引っ越しをしましたが、この本はずっと持ち歩いてきました。じっくり読んでも、パラパラっとめくっているだけでも楽しいし、お写真も素敵です。

 向田 私もきちんとお料理を習ったわけではないし、姉と一緒に作ったといっても大したものを作ったわけじゃないんですけど、何しろお料理を作っていても、お酒を飲んでいても、姉と一緒にいると楽しかったですね。肉じゃがなんかをよく作りましたけど、食べ物にはピンからキリまであることを知っておいた方がいいからと、私や母をよくいいお店に連れていってくれました。私もお店で働いているし、自分で支払いはすると言っても、「この次ね」と、最後まで奢られっぱなしでした。

 直木賞のお祝いでは、「吉兆」に連れて行ってもらったんですが、その帰りのタクシーで「私はまだ小説家になって間もないから、スタートラインに立ったばかり。一歩一歩やっていくよ」「私も五十歳になってまさかのスタートラインに立ったから、あなたも幾つになってもスタートラインに立てるよ。最初は五十点かな? 私もまだ八十点だよ」と言っていたのを最近、よく思い出します。

 伊吹 確かに向田さんは五十歳で小説に進まれたわけで、本当にその時は覚悟を決めて新しい道に進まれたと思います。その言葉は励ましというか、和子さんの背中を今も押していらっしゃるんですね。

 向田 姉はすごく飛んでいるように見えて、昔のものを大切にして捨てられなかったり、人間関係にしても、やはり昭和の人で、昔気質なところがありました。どこかドライに割り切れないところが、優しいという言葉に置き換えられるのかもしれませんが、色んなことが分かりすぎてしまっていたようにも思います。自分が八十歳を過ぎて、昔母が言っていた衰えを実感するようになったんですが、姉は四十代後半で、もうこうした感覚を分かっていたんじゃないかとも。

向田和子さん(右)伊吹有喜さん(左) 写真:石川啓次

 伊吹 向田さんはエッセイの中で、ご自身の書くホームドラマというジャンルは、他の分野に比べて軽く見られがちだと嘆いていらっしゃいます。でもホームドラマであるがゆえ、どんな時代にも通じる普遍性をもっていると私は感じます。そこに描かれる肉親の情や業の深さ。ままならない相手を好きになったり、夫婦間に倦怠期がおとずれたりすることで生じる思い。それは令和も昭和も変わらず、おそらく古代も未来も人は同じような思いを味わっているはずです。そこを掬い取って描かれた向田作品は、『あ・うん』にしても『隣りの女』(文春文庫)にしても、随所に心をつかまれるセリフがたくさんある。これからも、若い読者もふくめて、そこにドキドキさせられ続けていくと思います。

 向田 姉が亡くなった時、正直、「向田邦子」がここまで続くとは考えてもいませんでした。十五年間くらいは久世さんの力でスペシャルドラマを放送してくださったことがよかったのかもしれませんが、いずれにせよ脚本だけではそんなに続かなかったと思います。そこである時、姉の作品は、マスコミや編集者、読者の方たちに、死んでからも育てられていることに気づいたんです。

 こうした皆さまへ私が出来るお礼として、最後の打ち上げ花火として、今年一月に青山SPIRALで没後四十年の特別イベントを開きました。コロナ禍で大変なことも多かったですが、色々と取り上げていただいたおかげで、会期後半は入場待ちをする列ができるほど盛況でした。「いま、風が吹いている」という題のイベントでしたが、姉から「和ちゃん、本当に風は吹いたの?」と聞かれたら、すぐに「吹いたよ」と言えますね。きっと姉も喜んでくれていることでしょう。


「オール讀物」8月号より

文春文庫
阿修羅のごとく
向田邦子

定価:814円(税込)発売日:1999年01月08日

文春文庫
あ・うん
向田邦子

定価:704円(税込)発売日:2003年08月01日

文春文庫
父の詫び状
向田邦子

定価:726円(税込)発売日:2006年02月10日

文春文庫
隣りの女
向田邦子

定価:660円(税込)発売日:2010年11月10日

単行本
雲を紡ぐ
伊吹有喜

定価:1,925円(税込)発売日:2020年01月23日

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