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伏見工業伝説泣き虫先生と不良生徒の絆

伏見工業伝説泣き虫先生と不良生徒の絆

益子 浩一

『伏見工業伝説』(益子 浩一)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #ノンフィクション

『伏見工業伝説』(益子 浩一)

「まだ、やり残したことがあるんですわ」

 かつて“京都一のワル”と呼ばれた山本清悟は体育館の横にある木製の椅子に座り、部員がいない土のグラウンドを眺めながらそうつぶやいた。

 2020年、新型コロナウイルスが猛威を振るう前のことだった。その年の10月で、60歳になる。奈良県の教員が定年退職を迎える年だった。

 定年後は、どんな道を歩むのか――。それを尋ねると、校舎から響く生徒が騒ぐ声を聞きながら、真剣なまなざしになった。

「僕がいなくなったら、この学校からラグビー部はなくなってしまうからね。あの子らは遊びに走るか、夢や目標もなく、だらだらしてしまうだけやないですか。学校に残って、教えてやらんとね。僕が恩師から教わったことは、まだ伝えきれていないですから」

 それは、どこかで聞いたことのある言葉だった。そして、山本が言う「恩師」とは、山口のことだった。

 奈良朱雀高校は、世界遺産の薬師寺からほど近いところにある。2007年に奈良工業と奈良商業が統合されて現校名となり、卒業生にはタレントの明石家さんま、人気グループTOKIOの城島茂らがいる。ボクシングの高見公明はロサンゼルスオリンピックに出場した後、教員として同校に赴任しボクシング部を創設。元世界王者の名城信男、拳四朗らを育てた。部活動に力を入れている高校でもある。学校を訪ねたのは、ちょうど昼食が終わる時間だった。体育教官室から出てきた山本は、走りながら「こんにちは」と言う生徒を呼び止めた。

「おい、こら! 挨拶は立ち止まってするもんや。しっかりせんかい!」

 苦笑いをしながら「ほんまに、アイツら。何回言っても分からんのですわ」とこぼして遠くを見つめる。缶コーヒーを飲みながら、こう続けた。

「社会に出た時に、大事やからね。そういうんは、言うてやらんとアカンと思うんですわ。向こう(生徒)は、うるさいオッサンやと思っているんちゃいますか」

 新型コロナウイルスは、私たちから多くの自由を奪った。その日からしばらくして、学校の部活動は停止に追い込まれた。公式戦がいつ始まるかも分からない。練習すらできない日々。それでも、山本が生徒に教えることは一貫していた。

「花になろうとするな。花を咲かせる土になれ。人のために、仲間のためにやれる人間に、なろうやないか」

 偶然か、それとも何かの巡り合わせなのだろうか。その年の1月25日にあった近畿大会の奈良予選。奈良朱雀高校は0―115で天理高校に大敗した。まるで、45年前の伏見工業とそっくりの屈辱を味わった。

 当時の山口は、「悔しい!」と泣き叫ぶ小畑ら、部員一人一人を殴りつける。時代の違いがあるからかも知れない。山本がとった行動は、それとは違っていた。

「試合の前に、『チームのために体を張れ』と伝えたんです。相手は名門校。スピードも、パワーも差が歴然とした中で、ほとんどの子が仲間のために体を張っていたんですわ。『できたやないか』と。『お前ら伸びしろがあんねんで』と。後半は全く足が動かんかったけど、それはこれからの練習で何とかなる。『秋には天理、御所実業という(奈良の)2強と同じ土俵に立とうや』と言うたんです」

 山口に導かれて始まった長いラグビー人生。高校日本代表に選ばれながら、伏見工業が初めて全国大会の扉を開いたのは山本が卒業した後だった。日体大を出て教師になり、指導者としても、花園とは縁がないまま年を重ねた。そして、コロナ禍に進む道を狂わされた2020年、監督として最後のシーズンもまた、全国大会には届かずに終わった。

「全国大会や、優勝というもんには縁のない人間でね。花園は、はるか遠い場所にある。でも、そういう夢を生徒に持たせてやらなアカンということは、ずっと、恩師に言われてきたことなんです」

 2021年の春。定年を迎えた山本は、嘱託再任用で奈良朱雀高校に残った。ラグビー部では、監督から顧問になったが、やるべきことは変わらない。

 なぜ定年を迎えても学校という場所に残るのか。山口との出会いがなければ、高校すら卒業していなかったかも知れないのに。それを聞くと、冒頭の言葉をつぶやいたのである。

「まだ、やり残したことがあるんですわ」

 と、そう話すと、そっと目を閉じた。恩人を思い出しているようでもあった。

「3年間、やり通すこと。一生懸命ひたむきにやる。社会に出たら闘争心ばかりではアカンけれど、それがあれば何とかなることもあるやないですか。一つのことをやり通すことで、何でもいい、何か自信をつけて欲しいんですわ」

 受け継がれる山口の教え。それを伝えることが、使命だと信じている。

文春文庫
伏見工業伝説
泣き虫先生と不良生徒の絆
益子浩一

定価:781円(税込)発売日:2021年09月01日

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