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2020年1月。山本が監督をしていた奈良朱雀高校が、0―115で天理高校に大敗した時期だった。
45年前に伏見工業の主将として、同じような屈辱を味わった小畑道弘は、病に倒れていた。腎臓と肝臓を患い、入院生活は3カ月にも及んだ。
虫の知らせで知った山口は、杖をついて伏見にある病院まで駆けつけてきた。
「ワシがまだ元気やというのに、お前が体を壊して入院するなんて、どういうこっちゃねん!」
教え子の平尾を2016年に亡くしてからというもの、「親より早く逝ったらアカン。ワシより先に逝ったらアカン」という言葉を、繰り返すようになっていた。
教師と生徒。そんな関係を超えたものが、山口にはある。定年退職して学校教育から離れ、80歳を目の前にした今でもなお、教え子を心配し、孫のような存在のラグビー部員を気にかけている。
日本で初めてラグビーのワールドカップが開催された2019年のことだった。9月28日の1次リーグで、日本は優勝候補のアイルランドを19―12で破った。
静岡県のエコパスタジアムで行われたその試合を、山口はスタンドから見届けた。一人、京都から新幹線に乗り、足を引きずりながら会場にたどり着いたのである。「チビ」と呼んで可愛がる伏見工業出身のスクラムハーフ田中史朗の勇姿を見るためだけではなかった。そこに行けば、もう一人の“教え子”に会えるような気がしたのだという。
電話から聞える山口の声は、震えているようであった。泣いていたのだろうか。まだ試合の興奮冷めやらぬスタジアムからの帰り道。ようやくタクシーを捕まえ、これからホテルに向かうところだと、そう話していた。
「4年前の南アフリカとの試合は、平尾と見るはずやった。あの時は、直前になって、体調が悪くなったと連絡が入ってね。でも今日、平尾は空から見とった。スタジアムの空におって、私と一緒に見ていたんやと思います。誰よりも、この勝利を待っていたんやからね。日本のために彼が歩んできたことは、まだ続いとる。この結果も、平尾の歴史のひとつなんです。
長生きして、良かった。こんないい試合を、見ることができたんやから。そう考えると、いつまでも涙が止まりません」
その大会で日本は史上初めて決勝トーナメントに進む。準々決勝の南アフリカ戦が行われた10月20日は、3年前に他界した平尾の命日でもあった。3―26で敗れ、ベスト4進出を逃した試合を、高崎利明は客席から見ていた。
目の前で繰り広げられているのは、超満員の大観衆が一つになって声を絞り出す日本へのコール。最後の1分、1秒まで逆転を信じて走り続ける教え子2人の姿だった。そこに、セピア色の記憶がよみがえってきた。後半途中から田村優と交代で入った松田力也はスタンドオフへ。田中史朗はスクラムハーフとして、伏見工業出身の2人がハーフ団を組んだ。
その光景が、高崎の記憶と重なった。
「フミ(田中)と力也が出てきてからですね。高校生の頃を思い出していました。2人が、この世界が注目する大きな舞台でハーフ団を組んで戦っている。スクラムハーフが自分で、スタンドオフが平尾。なんででしょうかね。あの頃と重ねて、見ていました」
まだ、物語は続いている。
2021年の2月。小畑は病が再発し、伏見の病院に入った。腹水が5リットルもたまり、入院は2カ月半にも及んだ。ようやく5月に退院すると、まだ体力が回復していない、弱々しい声で、こう漏らしたのである。
「今年もまた、ワシらの記念日が来ますね。この時期になると、今でも思い出すんですわ。若かったなあ、熱かったなあ、ってね。でもね、変わりませんよ。62(歳)になった今でも、気持ちはあの日のままですわ」
5月17日とは、1975年に花園高校に0―112で敗れた日。ゴールデンウィークが終わる頃になると、毎年のように若かりし頃の苦い記憶が今でも甦ってくるという。
「あの日が伏工の始まりだったんですわ。46年前の、負けた日が。ドラマは終わりましたけどね、僕らはまだ、終わっていないんですわ」
昭和から平成へ。平成が終わり、令和の時代に入った今、人と人との結びつきは薄れつつある。それに追い打ちをかけるように、新型コロナウイルスは私たちの生活を脅かし、人との関わりはさらに希薄になった。そんな時代だからこそ、伝えたい物語がある。
その生涯をかけて、残そうとする人たちがいる限り。
伝説は生き続ける。
2021年6月 益子浩一
(「あとがき」より)
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