「七崎くんって、『オカマ』なのかな? 先生は、七崎くんのことを『ふつうの男の子』だと思うんだけど、どうしてみんなは七崎くんを『オカマ』って呼ぶのかな?」
「先生、ぼくは気にしていませんから!」と笑顔で言って席に戻れば、何もなかったことになるだろうか。クラスは静まり返っている。ここで鼻をすすったらぼくが泣いていることをみんなに知られてしまう。ぼくは歯を食いしばり、もっと俯いたが、涙が頰をつたい、冷たいタイルの床に落ちていった。(本文一九~二〇頁)
一日の授業が終わり、最後の「帰りの会」の時間。いつもは優しく笑顔の担任は、小学二年生の少年を教室の前に呼び出し、彼が「オカマ」なのか、それとも「ふつうの男の子」なのかと尋ねる。「ふつうの男の子」だと口を揃える同級生たち。教師は少年に優しく語り掛ける。「もう、大丈夫だからね!」――。
このシーンが私の脳裏から離れない。教師からすれば、周囲に比べてすこし違う少年を、クラスメイトの輪の中に穏便に戻そうとしただけなのかもしれない。少年が泣いていることも深くは考えていなかっただろう。彼女は満足していたはずだ。時に、その善意や教師としての使命感が最も鋭利な刃になるとも知らずに。
一方、少年の立場からすれば、クラスメイトの前に晒され、自身の「特異性」に注目を浴びせられた。想像するだけでもトラウマ的な出来事だ。しかし、教師には悪意がない。むしろ良かれと思って、一人の児童を救おうと思っての行動だった。しかし、「ふつう」かどうかを問われることによって、むしろ自分の「違い」が際立っていることを再認識させられることになる。
この出来事は、間違いなく少年の心に影を落とした。彼はこう決意した。「先生のおかげで、自分は『ふつう』ではない人間なのだと、気づかされてしまった」、だから本当の自分を隠して、「ふつうの男の子っぽく」振舞おう、と。
LGBT、性的マイノリティの正確な人数はわからない。その多くが、いわゆる「クローゼット」、カミングアウトしていない、あるいはしないことを選択しているからだ。ただ、ある調査によれば、日本で六万人を対象に聞き取りを実施したところ、十一人に一人(八.九パーセント)が、自分がLGBTであると認識しているという(電通ダイバーシティ・ラボ「LGBT調査二〇一八」)。学校であれば、クラスに三、四人いることもありうる。それを多いと思うかどうかは人それぞれだが、少数派であることには変わりない。七崎さんのように、自ら声を挙げることができる人はさらに限られ、多くの人は自分の指向や思いを打ち明けられず、自分を押し殺している。もちろん、打ち明けることが全ての人の理想とは限らない。しかし、もし打ち明けたいと思った時に受け入れてもらえる社会かどうかについては、まだまだ追いついていない部分が大きいだろう。
七崎さんは、高校の同級生であるハセに恋をする。一方ハセはほかの女子生徒を好きになる。ハセの片思いを応援したことをきっかけに仲良くなり、温泉に行ったり、山登りしたり、いつも一緒に遊ぶようになる。しかし、ハセは片思いを諦めきれず、七崎さんの気持ちには全く気付かない。故に、何気ない言葉に胸を抉られることだってある。
「七崎は、人を好きになったことがないから、俺らの気持ちは、わからないんだよ」
(中略)
「ハセの気持ちなんて、わかりたくない! 好きな人なんか、いらないもん!」
「でも、もし七崎が女だったら、俺ら、付き合ってたよな」
まただ。こんなハセの言葉が、どんなに嬉しくて、どんなに辛いか。ハセの何気ない一言で僕の心は一喜一憂してしまう。僕が女だったら付き合っていたと言われることは、とても嬉しい。だけど僕は男として生まれた。だから、遠まわしにお前とは付き合えないと言われているとも受け取れる。何で僕は男なのだろうか。(本文七七~七八頁)
好きな人は優しくて残酷だ。一緒にいられる幸せと、想いを伝えられない苦しさと。胸が張り裂けそうな恋情は多くの人が経験するもので、その対象が異性か同性かは関係ない。そうなのだ、性的指向が違うだけなのだ。幼い頃からインプットされる、男性は女性を、女性は男性を好きであるべきだという概念。親からそう言葉にして教わるわけでもないのに、見聞きしたものはいつもその方程式の中でドラマが繰り広げられていた。その刷り込まれてきた「ルール」が少し変わっただけで混乱する人がまだ多い。でも考えてみれば、異性カップルであっても、それぞれ恋愛の形は全く違うわけで、それは同性カップルにおいても同様だ。胸に秘める思いはどんなカップルでも同じではないか。
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