■幻の戯曲ヴァージョン
――黒田浪漫はあなたのドッペルゲンガーですよね。黒田が書いた小平事件についての本には、『TOKYO YEAR ZERO』とまったく同じ文章があります。
DP 黒田浪漫は一種のファンタジーでもあって、つまり、もしわたしが日本の探偵小説作家だったら――という空想と言えばいいんでしょうか(笑)。実は黒田浪漫は『Xと云う患者』のラストで芥川の死を知らされる「堀川保吉」の「その後」の姿でもあります。
――そういえば黒田の本名は「堀川保」でした。堀川保吉は芥川が私小説的な作品を書く際に自身の分身として生み出したキャラクターですね。
DP 「創作者が死んでしまったあと、堀川保吉のような虚構の分身はどうなってしまうのだろう?」という問いにわたしは関心があるんです。保吉が黒田浪漫になったのかもしれない、保吉の次の姿として黒田浪漫があるのかもしれない、というような考えがありました。
――室田は黒田浪漫が遺した「下山本」の原稿を入手します。これが第二部の後半で室田の物語に作中作として挿入され、物語は異様な幻想味を増していきます。虚実は入り乱れ、降霊会の場面に至る。あの場面、好きなんですよ。
DP それはよかった。実は『TOKYO REDUX』で最後に書いたのはあのパートだったんです。あそこが戯曲になっているヴァージョンもありました。第一稿では、黒田浪漫が舞台上で劇を演じるんです。下山総裁の死の劇を。だけれど、アメリカとイギリスの編集者は気に入ってくれなかった。というのもわたしはそこを戯曲の形式で書いていたんです。ト書きとかがあるかたちで。
――そのヴァージョンは読んでいませんが、完全に戯曲の形式となると、僕もとまどったかもしれません。
DP その反応を見て、わたしも思い直したんです。日本について知らないと理解しづらいかもしれないと。満鉄の爆破であるとか、そういったものについての背景知識が必要でした。そうこうしているうちに『Xと云う患者』がアメリカで出ることになって、アメリカの版元のクノッフ社からプロモーション用に何か書いてくれまいかと依頼があったんです。で、芥川と降霊会の出てくる短編を書いた。これが突破口になりました。例の演劇は最終的に混沌と衝突、破壊で終わるんですが、降霊会を使っても同じような混沌の効果が出せるんではないかと思ったんです。
――戯曲版を読んでみたいとは思いますが、読者は混乱してしまうでしょうね。
DP 実は寺山修二を意識したものだったんですけどね。
――なるほど、舞台上と現実が交錯してしまう感じというか。
DP そういうのです(笑)。歌やダンスも出てきて、これがきわめてビザールな感じで。
――舞台があるのは精神科病院ですよね。『マルキ・ド・サドの演出のもとにシャラントン精神病院患者たちによって演じられたジャン=ポール・マラーの迫害と暗殺』を連想します。
DP そう、ベースにあったのは寺山と、『マラー/サド』だったんです。このパートはあまりに過激で奇想天外ではあったので、そのあとに来る第三部を考えると、いろんな問題が生じてきたでしょうね。
■昭和天皇崩御と「決着のとき」
――第三部では再び時代が飛んで、1988年の暮れから1989年にかけて。昭和天皇が病床に臥せっていた時期――つまり昭和の黄昏です。主人公は年老いた日本文学翻訳家ドナルド・ライケンバック。彼は終戦直後にCIA工作員として東京にやってきて、下山事件に関わったのちも東京に住みつづけた「ガイジン」です。
DP 本書の冒頭には黒田浪漫の作品からの引用が置かれていますよね。つまり黒田の作品を英訳する翻訳家がいるということなので、第三部の主人公がアメリカ人の日本文学翻訳家になったわけです。
――第三部の語り手はライケンバックですが、現在と過去を交互に語る形式になっています。「現在」のほうは比較的ニュートラルな三人称、そして彼と下山事件とのかかわりを描く「過去」のほうは二人称、「おまえ」で語られます。
DP そもそもドナルド・ライケンバックのパートは、構想中の別の小説の一部だったんです。以前にエドワード・サイデンステッカー氏と何度かお会いしたことがあって、そのご縁で彼の『源氏日記』を読んだんです。彼が『源氏物語』を英訳していた時期のことを記した本で、翻訳の苦労話ももちろんありますが、1970年代の東京でのさまざまな体験が書かれています。こうした男たち――ほとんどが男性で、占領期に東京にやってきて、そこに定住した男たち――にわたしは関心を惹かれました。また、ドナルド・リチーやドナルド・キーンの作品を読むうちに、昭和天皇の崩御が彼らにどれほど巨大な衝撃を与えたかということも知りました。さらに横山秀夫さんの『64』を読んで、昭和天皇の崩御が日本人にとっていかに重要な瞬間であったかあらためて悟ったんです。これこそが物語における「決着のとき――クロージング・タイム」であるべきだと。
――ライケンバックをフィーチャーした第三部には、あなたの過去の作品にはなかった質感を感じるんです。どこかセンチメンタルなところがあるというか。
DP 個人的には、どの作品もその前の作品からの論理的な帰結として生まれたものだと思っていて、同時に「その先」へと向かうものでもある。つまり、どの作品にも何かしらの新しさがあるわけですが、ライケンバックのような人物は確かにわたしにとって新しいものでした。彼が老齢であるせいかもしれません。わたしも両親が年をとってゆくのを見たり、高齢のひとと会う機会も増えた。あと、第三部はジョン・ル・カレの強い影響を受けているせいもあります。ル・カレの「ジョージ・スマイリー」のような人物が大好きなのです。ちなみに第三部の日本外国特派員協会での場面はル・カレへのオマージュです。
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