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エッセイ 最初のブラックジョーク<特集 笑ってはいけない?>

エッセイ 最初のブラックジョーク<特集 笑ってはいけない?>

千葉 雅也

文學界1月号

出典 : #文學界
ジャンル : #随筆・コミックエッセイ

「文學界 1月号」(文藝春秋 編)

 死んでよかったね。ある人間の死から人間全体の消滅へとジャンプし、人間なき後に空虚な語の立ち騒ぎだけが響き続ける。

 言葉は、現実とは別のヴァーチャルな平面を描く。そこは現実のドラマから切り離された死のリズムが立ち騒ぐ領野である。人が人にどう関わるか、どう財が移転し、生き死にが左右されるかを関心事とする目的的な言語使用から離れて、ただの遊びとして言葉が躍動する。あらゆる学問と芸術の根本はそうした「言語の玩具的使用」であると僕は『勉強の哲学』で論じている。他にもあるとは思うが、この「死んでよかったね」の例は、恥と心的外傷を伴った、言語の玩具的使用のとりわけ印象的な例である。

 生き死にをどうするかそれ自体の死を僕はあのとき宣告した。それは「詩」を開くことだった。すなわち、ただ言えるだけの言葉あるいはシニフィアンの平面を解放すること。現実的ドラマの死をむしろ言祝いで、別の時空の始まりを宣言する。だから「よかったね」なのだ。人間なき後に解放される詩を言祝いだのである。

 僕の記憶にある最初のブラックジョークは、詩的言語の勝利を謳うものだった。

 僕はつねに、世の中の実際的問題から離れたところでの笑い、というか、そこから離れることそれ自体が笑いであるような笑いを胸に抱いている。ひと言で言えば、デタッチメントの笑いである。それは、額に汗して真剣に生きる人々を小馬鹿にすることだろうか? そうした笑いはときに「冷笑」と呼ばれ批判されている様子でもある。僕はその種の批判は粗雑なものだと思うのだが、そうだとしても、あの幼少期に母=社会から責められた恥ずかしさのただなかに改めて踏み込むなら、僕がつねに持つ厭世的な悪意――をときに責められること、いや、それを責められるのではないかといつも不安に思っていること――は認めなければなるまい。だがそれは、学問と芸術において普遍的な悪意であると、僕は堂々と言いたいのである。

 学問であれ芸術であれ、言語(および非言語的な表象)を自由に躍動させることはつねに汗や涙からのデタッチメントであり、だからこそ事象に対する外在的批判、批評が可能となる。現実の利害における泣き笑いではない「別の笑い」がある。人を運命から解放し、万象を別の可能性に向けて炸裂させ、そこで自己と他者が入れ替わる時空――つまりフィクションの時空――を開くような笑いである。だから、すべての学問と芸術はブラックジョークである。その笑いが偉そうで気に入らないとすれば、それはたぶんデタッチメントの側面のみを見ているからだろう。しかしながら、真に重要なのは、デタッチメントによって開かれる新たな自他の関係の方である。

 世界の濁流に呑まれ続ける生き方こそが真剣なものであり正しいのだろうか? 僕はそうは思わない。小さい頃から、それに抵抗してきたのだ。

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