“忍者の里”から江戸へ、そして「奥の細道」の旅へ。俳聖「芭蕉」誕生の秘密
松尾芭蕉は江戸深川に「芭蕉庵」と名付けた住まいを、富裕な杉山杉風をはじめとする門人や知人たちの援助により構えていました。そして、次の句を残しています。
秋十(と)せ却(かえっ)て江戸を指(さす)古郷 芭蕉
(江戸の暮らしも十年が過ぎたこの秋、郷里の伊賀へ旅立つのだが、この江戸がかえって故郷に思われることだ)
このように、第二のふるさとと詠むまでに江戸に慣れ親しんでいました。しかし、そこに定住しようとしても何か心が騒ぐ自分の性があったようです。
住(すみ)つかぬ旅のこゝろや置火燵(おきごたつ) 芭蕉
(一所に定住する気持ちが薄く、いつも旅に出たい気のはやる自分は、まるでこの置炬燵のように落ち着かないことだ)
こう詠んだ芭蕉は、生涯の大半を旅に費やしたのでした。また、その旅の多くを亡き父母の主たる年忌に合わせるなど、まるで江戸という出稼ぎ地から戻るように、故郷の伊賀に頻繁に帰っていました。さらに、江戸へ出る前に伊賀で仕えていた主家の藤堂家とは、江戸藩邸に門人の藩士がいたこともあり、交誼が絶えることがなかったのです。そして、旅の軌跡を追えば、俳諧活動の中心だった中京・関西圏にあって、伊賀が地理的にその中心に位置するだけではなく、心の本拠、拠り所であったことがわかります。
芭蕉は江戸ではなく伊賀の人として俳諧人生を全うした、と表現するのが正確だと思われます。本書のタイトルを「伊賀の人・松尾芭蕉」とした所以です。
さて、本論に入る前に、俳諧が生まれるまでの歴史をざっと振り返ってみます。
俳諧は、身分を問わず老若男女が参加できたため、江戸時代に最も親しまれた文芸でした。しかし、あくまで第二級の「俗」の文芸としてです。現在でこそ俳句や短歌、詩に文学としてのランク付けはありませんが、当時は誰もが、俳諧を和歌の下位にみて疑わなかったのです。
対等であるべきと考え精進していたのは、蕉門など少数でした。この差別意識の起因はどこにあるのでしょうか。