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99のブループリント

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砂川 文次

文學界3月号

出典 : #文學界
ジャンル : #小説

「文學界 3月号」(文藝春秋 編)

***

 何かがいる。

 安藤修は、不意に訪れた恐怖とともに目を覚ました。

 ベッドから上体のみを起こし、狭いワンルームを見渡す。ベッド、テーブル、ローボード、テレビ、PC、いくつかのモニター。アイランド式キッチン、冷蔵庫、食器棚。服は全てベッド下の衣装ケースに仕舞われている。小ぢんまりとした部屋だ。

 掛け布団を脚で追いやって、ベッドに腰をかけるようにして座りなおす。

 背の低いガラステーブルの上には昨日飲みかけのまま放置していたマグカップが置いてある。飲み残しのコーヒーの表面にはミルクの膜が広がっていた。その隣に灰皿とアメリカンスピリットとリモコンとライターが転がっている。カーテンの隙間から漏れる陽光に照らされた埃がきらきらと舞っていた。その塵芥を眺めるともなく眺め、まだ腹の底に沈殿する恐怖の残りに思いを馳せる。怖い、という感情と寝起きのなんともやるせない感じとが一つに溶け合っていた。だから覚醒には、まだ至っていない。肩のあたりが重く、瞼が固い。喉にはねばりつくような唾液が絡まっていて、それから尿意もある。すでに勤めを辞していたにもかかわらず、行かなければという焦燥が一瞬電気的に走った。これはあるいは、すでに勤めを辞している、ということ自体に対する焦燥であったかもしれない。どれだけの時間をそうしていたのかは分からない。分からないが、気が付くとタバコを口にくわえていた。

 何かがいた。

 部屋の中か外かは分からないが、だがいることだけは覚知できた。すぐ後ろにくっついているような気もする。恐怖は去っていない。ただ輪郭がだいぶぼやけてしまっているだけだ。怖いからと言って、別段何かをしなければいけないわけでもない。両手が空いていることにいまさらながら思いいたり、ガラステーブルに転がる百円ライターに手を伸ばした。

 朝だ。音が少ない。火を点け、フィルターを吸い込むとちりちりとタバコの先が燃える音がした。思い出したように、窓の外からトラックと思しき車両の走行音が届く。徐に腕時計に一瞥をくれてやる。まだ朝の六時前だ。今一度紫煙を肺に送り込む。右手にはまだライターを握っていて、親指の腹で以てそこに貼られている注意書きのシールをなんとはなしに擦る。ライターをテーブルに放って、前こごみになったついでとばかり、リモコンの「電源」ボタンを押す。無論昨日垂れ流していた局のままだった。昨夜も今朝も、経済番組をやっていた。

 灰皿に灰を落とし、意を決してベッドから腰を上げた。カーテンを開けて日差しを一身に受ける。窓を開けると冷気が入り込んでくる。雲一つない晴天だった。

 アンドウの家は三鷹と調布の境目のアパートの二階にあった。角部屋だ。目の前には小川が流れている。

 タバコを吸いながら外を眺めると、きれいに舗装された道路とその左右に立ち並ぶ桜並木があった。もっとも、今は花はもちろん葉すら落としていて丸裸だったが。道路の向こうはフェンスが一線に拡がる。小さな飛行場との境界だ。

 窓を閉め、部屋へ引き返す。枕元に置いてあるiPhoneを手に取って通知を眺める。SNSのタイムラインをさっと目で追い、ネット証券のアプリ、LINEを一通り眺める。

 阿鼻叫喚、とはこういうことを言うのかもしれない。NYダウも日経も、自分がチェックしていた銘柄も暗号通貨も、遠目から見れば似たようなチャートを描いていた。かつての投資仲間などは「ナイアガラ」などとあだ名しては取引画面のキャプチャーや損失額を面白おかしく報告している。でも、とアンドウは思わざるを得ない。「4時間前」になされたその「www」のツイートの裏にいるはずの実体の焦りを。

 プロも素人ももはや関係ない。誰もが気が付いたはずだ。今回は今までと違う、と。

 

この続きは、「文學界」3月号に全文掲載されています。

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