平野紗季子が本を出す前から、私はその文章と写真のファンで、ブログをのぞいては、こんなおもしろいことを考えている人がいるんだ! と驚き、感動していた。
『生まれた時からアルデンテ』が単行本として出版されたときもすぐ夢中になって読み、ある媒体の読書アンケート号で「2014年上半期の三冊」の筆頭に選んだりもした。そのとき平野は20代前半。若いからすごい、とか、若いのにすごい、というのとはまったくちがう、すでに完成した書き手が出現した、というようなことを熱に浮かされた調子で述べた。
それから八年。私も含むファンの期待に応えて平野は活躍の場をどんどん広げ、いまやこの国のフードシーンを活気づけてやまない存在になった。そしてこのデビュー作は、文春文庫で再刊されることになった。今から数十年後、本屋の文春文庫の棚では、『生まれた時からアルデンテ』の隣に平野紗季子著の著作がずらりと並んでいるのではないか、という未来予想が頭をよぎる。岸朝子の「おいしゅうございます」のようなしぶい決め台詞とスタイルを持った、21世紀フードシーンの“生き字引”のような存在になっているのではないかと期待してしまう。それぐらいの魅力が本書にはある。
ではあらためて、本書の魅力とは何か。すでに通読しておられる方はじゅうぶんご存知と思うが、ともあれ考えるところを記したい。キーワードは、「一瞬」、「贅沢」、「想像力」だ。
一 瞬
「一瞬」は、本書のタイトルに含まれる「アルデンテ」と関わる。一九九一年生まれの平野にとって、パスタは初めからアルデンテの茹で加減がおいしいと感じて当たり前だから、ナポリタンのあのあえて柔らかくした麵ばかりを偏愛する態度に、異議を挟まずにはいられない。表題エッセイはそのような論旨で、ナポリタン礼賛論を再検討する。旧世代への宣戦布告のようにも取られかねないところだが、よく読めばそうではないことが分かる。ではどういうことか。
本書の根幹にあるのは、食の輝きは「一瞬」にあるという直観だ。麵には麵のピークがある。それは「一瞬」で過ぎ去る。少しずれても食感は変わり、二度と後戻りできない。「アルデンテ」は、食材の生に一度だけ訪れるもっとも幸福な「刹那」の別名なのだ。
平野がどうしても物申さずにいられないのは、「旧世代」に対してでもなければ、ナポリタンという麵料理一般のことでもなく、「一瞬」のかけがえのなさを黙殺する態度(「アルデンテに対する反骨心」)だ。
食べものは消えてしまう。
もうここにないもの。もう私のものでないものになってしまう。(119頁)
だからこそ真摯に「一瞬」と向き合い、消えてしまう前に記憶して言葉で書き留めなければならない。あるいは、写真に収めなければならない。このほとんど常軌を逸した切迫感が、平野のあらゆる文章に通底している。この切迫が伝わるから、頁をめくるこちらの手も止まらなくなる。
贅 沢
特筆すべきなのは、「一瞬」への切実な想いが、「もったいなさ」とか「無駄遣いしないこと」を価値付ける平凡な道徳に落ち着いてしまうのではなく、ほとんど貴族的な、消尽の美学へ突き抜ける点だ。「一瞬」で過ぎてしまうから哀しい、というだけではない。一瞬“だからこそ”美しい、と肯定する点にフードエッセイストとしての平野の非凡さはある。
腐るって優しさなんじゃないか。「生ものですのでお早めにお召し上がりください」。この言葉には神の福音に似た響きがある。未来も過去もない今、目の前にある食べもの。矛盾なく、美しいままで生き抜いて、終わる。だからこそ食は、刹那なほどに光り輝き、食べ手は絶頂だけを心に留めることができる。(57頁)
本書には、庶民生活とはかけ離れた体験も書かれている。けれど、浅薄な「見せびらかし」のスノビズムとは縁遠い。巻末の、平野が影響を受けたものの「カタログ」では、写真家でイラストレーターのTodd Selbyがセレクトされていて、「食べものの世界の切り取り方がとんでもなく素敵で憧れる。日本の居酒屋から世界一のレストランまで隔たりがないし、全然偉そうじゃない」(193頁)とあるけれど、この「偉そうじゃない」態度は本書のものでもある。「偉そう」であることこそがクールだった世代(伊丹十三とか)とはまったく違う、いまの感覚の中に平野はいる。
ただし、角が立たないように振る舞うというのともちがう。「カタログ」には森茉莉『貧乏サヴァラン』もセレクトされているが(195頁)、森茉莉が書く「ほんとうの贅沢」をめぐる姿勢は、平野のものでもあるだろう。
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