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一瞬と贅沢と想像力

一瞬と贅沢と想像力

文:三浦 哲哉 (映画批評家・青山学院大学文学部教授)

『生まれた時からアルデンテ』(平野 紗季子)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #随筆・エッセイ

ほんとうの贅沢な人間は贅沢ということを意識していないし、贅沢のできない人にそれを見せたいとも思わないのである。贋もの贅沢の奥さんが、着物を誇り、夫の何々社長を誇り、擦れ違う女を見くだしているのも貧乏臭いが、もっと困るのは彼女たちの心の奥底に「贅沢」というものを悪いことだと、思っている精神が内在していることである。(『貧乏サヴァラン』32―33頁)

 

「贅沢」をするのに大金は必ずしも必要ではない。ようは、美しいものの価値を、他人の目とか社会道徳などに従属させないこと、潔く消尽して物怖じしないことだ。その姿勢で突き抜けられるひとが稀にいて、そういうひとは清々しい。

 ヒロミックス撮影による「私のミルクホール」と題された一連の牛乳の写真は(160―164頁)、「贅沢」をめぐる遊戯的なパフォーマンスである。弧を描く牛乳の白い水滴の列がフラッシュによってフィルムに焼き付けられる、はかない一瞬の形象だ。

 

想 像 力

 おいしさは「一瞬」の輝きを残して消える。かたちが残る絵画とも彫刻とも映画ともちがい、料理のエモーションはその事実にこそ立脚する。『生まれた時からアルデンテ』は、さまざまな「一瞬」を記述する試みだ。そこから独特の叙情が醸成される。

 

(…)熟したフルーツのサイズ感は完璧で、ひんやりとなめらかな生クリームが包む。純白の食パンはふわふわと口溶けて泡のように消えていく。(22頁)

 

 食べものは止まっているように見えても、その中では、いろいろな要素がせめぎあっている。動的平衡がある。それを記述するのに必要なのは、食材や調理をめぐる客観的知識以上に、想像力ではないだろうか。ひと皿の中に封じ込められている味や香りと、想像の中で、ともに踊ることのできる者だけが、おいしさを感覚的に言語化することができる。たとえば、「レモンのお菓子」のおいしさは、どう成立しているのか。

 

味の乗っ取りに関しては驚異的な力を持つレモン。だからこそ、レモンを手なずけたら天才だ。オーボンヴュータンのウィークエンド、天才。ホテルオークラのレモンパイ、天才。フラクタスのレモンコーディアル、天才。サクレ、天才。お菓子の本分である甘味に対してレモンの酸味を果敢にぶつけ、複雑な均衡を経て美味しさを生みだすその業(わざ)は、素人目には奇跡でしかない。(58―59頁)

 

 このような記述は、たとえば柴田書店の専門書における技術解説とは少しちがう。おそらくあえて距離が取られているのだろう。想像力に足かせを付けずにおくために。「冷蔵庫、いつもは真っ暗なんだと思うと寂しい 寒いし」(36頁)。とあるかき氷について。「仔馬のたてがみ気持ち良さそう撫でたら溶けた」(61頁)。「小さい頃、人の家の麦茶が不気味だった。(…)他人の、極めて個人的な部分が、なみなみと自分の喉を通って入りこんでくるのが」(74頁)。とても美味しそうに見えるけれど個人的にはレーズンが嫌いだから食べられないというレーズンサンドについて。「きらいな味があれば想像力に終わりが来ないので楽しいです」(151頁)。

 食材という物質との交歓だけではなく、自分とは習慣の異なる他者が棲むこの社会の広がりに触れることが、食をめぐる想像力の行使によって可能になっている。面白いだけでなく、ひりひりする想い、届かなくて悲しい想いも運ばれてくる。「そこにある悲しみは、この店で何かしらの時を重ねた、限られた人だけのものだ」(170頁)。

 食に対する並外れた真摯さは、著者をしばしば孤独に陥らせもするだろう。「女子会などで散見される、味の擦り合わせ。これが辛い」(37頁)。ひと皿へあまりに深く没入し、想像力の触手を伸ばしてやまないその姿勢は、はたから見れば少し変であるにちがいない。電車で「幸薄女」と呼ばれてしまったつらさは、「大福」を食べることであっさり回復するけれど(128―130頁)、それだけではすまないのでないか、と気になる。

 だがおそらく、自虐まじりで語られもする著者の孤独こそが、本書の魅力のコアにはある。美しいものにひたすら没頭するあまり独りぼっちになってしまった誰か。自分自身、孤独を恐れなかった著者が、あらゆる場所にいるはずのそんな誰かに、それでもいいんだよ、と語りかけて励ますメッセージの、優しく親密な調子が本書を格別に美しいものにしている。

文春文庫
生まれた時からアルデンテ
平野紗季子

定価:880円(税込)発売日:2022年05月10日

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