本書は二〇一三年十二月から二〇年五月まで、七八回ほど続けた月刊時代劇画誌『コミック乱』への連載に手を加えて、一冊にまとめたものである。食材を中心に、江戸時代の食文化を紹介したものであるが、改めて読み直してみると、当時の人々がいかに豊かな食生活をおくっていたかということに驚かされる。もちろん大名と農民、都市と農山漁村、蝦夷地(えぞち)(北海道)と九州など、身分階層の違いや住む場所、気候風土の違いによって、食生活は大きく左右される。ただしそれぞれの違いを超えて、人々は自らを取り巻く自然環境や経済社会状況に寄り添って、食を楽しんでいた。
筆者は学部、大学院、母校の助手の時代を通して、日本近世、特に江戸時代中後期から幕末維新期にかけての農村経済や、俳句などの農民の文化的な営為と経済とのかかわりについて研究をしていた。正直なところ食への関心は、ただ美味(うま)いものを食べることのみにあった。偶然、虎屋文庫という企業アーカイブズ、企業博物館に職を得て、和菓子を歴史・文化的な側面から研究するようになったと同時に、食全般の歴史的な事象への興味を持つようになった。その結果の一つが前著『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』(ちくま文庫)であった。
私と食とのかかわりで、もう一つ大きな転換点は、時代考証を行うようになったことである。虎屋文庫在職中から、NHKのドラマ関係者や時代考証に携(たずさ)わる友人から、散発的に菓子や食に関する質問を受けることはあった。たとえば毛利元就(もとなり)の食べた饅頭(まんじゅう)はどのようなものか、幕末の幕臣小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)が飲んだコーヒーは、近藤勇が京都で菓子を食べたとき江戸との違いに驚く場面での菓子とは、などである。
虎屋退職後には、NHK時代劇や時代劇漫画の考証に本格的に携わるようになった。先の連載には、こうした考証過程で得た知見を反映させている。生来、時代劇は良く見るほうではあったが、改めて手元のDVDや放送されるドラマを見てみると、腑に落ちない場面に出会うことも多かった。もちろん考証の行き届いた、そしてドラマとして面白い作品も多い。まずは時代考証と食文化とのかかわりを紹介することによって、本書の導入としたい。
食店の情景
食に限らずさまざまな歴史的な事象をイメージするに際して、絵画資料から得られる情報はありがたい。もちろん誇張など絵画ならではの限界はあるにしても、私は錦絵や黄表紙などの挿画を見てイメージを作っていく。そうした絵画を見ていて、現行の時代劇に対して大きな違和感を覚えるのが、居酒屋や一膳飯屋など食を提供する食店のたたずまいである。多くの時代劇では、テーブル状の食卓を前に、空き樽を椅子代わりにして腰掛けて酒を酌(く)み交(か)わしている。しかし江戸時代の居酒屋や食店では、縁台に腰掛けるか座敷に上がったり、小上がりに腰掛けたりして、酒を飲み料理をつまんだ。千代田のお城を抜け出た暴れん坊将軍が樽に腰掛け、町人と酒を酌み交わすという情景はあり得ないのである。
しかし、こうした情景が映し出されても多くの人に違和感はなく、江戸時代の食店の情景として定着してしまった感がある。藤沢周平の原作をドラマ化したNHK「蝉しぐれ」(二〇〇三年放送)は食店の情景を上手く表していた。また、私自身が考証に携わったNHKドラマ「みをつくし料理帖」(二〇一七年放送)では、江戸時代後期の庶民的な飯屋の情景を巧みに表現しており、決して樽に腰掛けるようなことはなかった。