玉三郎が舞台を務めながら考えていること
意外に思う人も多いかも知れないが、玉三郎にはジャーナリスト精神がある。
「今何が起きているのかを常に感じ取る努力は怠りたくない。また、日常生活で感じる違和感を見過ごさないように気をつけている」
1993年、私が初めて玉三郎にインタビューした時の彼の言葉が忘れられない。
たとえ自身が江戸時代の世界で舞台を務めようとも、それを観る人は現代人であるのを忘れてはいけないと玉三郎は考えている。つまり、彼が演じる作品は、単に古典であるだけではなく、現代社会に通じる「心」や「本質」があり、それを伝えてこそ伝統芸能なのだと確信を持っているのだ。だから、社会状況に常に目を配り、時代の変化についての分析を忘れないのだ。
例えば、スマートフォンによる弊害について、彼はことあるごとに警鐘を鳴らしている。スマホによって多くの若者が、社会と接点を持つことに興味を失い、直接人と接して行うコミュニケーションではなく、自分が好むSNSの情報を信じ込んでいる。それは、人間社会そのものが崩れていく予兆ではないか。彼はそう危惧している。
また、常に時代の変化に敏感であると同時に、変えてはならない日本の本質についてのこだわりも強い。社会とは常に流転していくものではあるが、人間の本質は変わらないからだ。そんな当たり前の常識すら失われた時代にあって、玉三郎の姿勢は尊い。
だからこそ、玉三郎にとって『ふるあめりかに袖はぬらさじ』は、極めて貴重な作品なのだ。
「この作品は、メディア批判でもあるし、美談や世論の怖さに警鐘を鳴らしていると思う」
玉三郎と本作品について語り合うと、彼は必ずその点を指摘する。
「にもかかわらず、主張を押しつけたりせず、面白おかしく、その先にある悲しみや虚しさが湧き上がるという重層的な作品は、何度演じても飽きないほど素晴らしい」
『トム・ソーヤ の冒険』で知られるマーク・トウェインがこんなことを言っている。
“君たち人間ってのは、どうせ憐れなものではあるが、ただひとつだけ、こいつは実に強力な武器を持っているわけだよね。つまり、笑いなんだ。権力、金銭、説得、哀願、迫害そういったものにも、巨大な嘘に対して立ち上がり、いくらずつでも制圧して、そうさ、何世紀も何世紀もかかって、すこしずつ弱めていく力はたしかにある。だが、たったひと吹きで、それらを微塵に吹き飛ばしてしまうことのできるのは、この笑いってやつだけだな。笑いによる攻撃に立ち向かえるものはなんにもない――(『不思議な少年』より)。”
玉三郎が本作を愛してやまない理由も、そこにある。
社会に閉塞感が蔓延し始めると、世論が感情的になり大きなうねりとなって社会を覆う。そういう時には捏造された「美談」も生まれやすくなる。なぜなら、多くの人が不安から逃れるために、別の何かに縋りたくなるからだ。
しかも危険なことに、そういうムードの渦中にいると、「美談」の罠にはまっていても、自覚もないし、簡単に抜け出せない。
そんな時、実生活を離れたエンターテインメントというのは、実に頼りになる。
昨年末、ロングインタビューをする機会があった時、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』が話題になった。
「コロナ禍で息苦しい時期が長くなり、閉塞感が広がって、世論の暴走のようなものが起きそうで心配だ」という話をした。
「そろそろ『ふるあめりかに袖はぬらさじ』を上演する時かも知れない」と、彼は言った。
そして公演が、実現したのだから見逃すわけにはいかない。
幕が上がれば、あれこれ考える余裕は与えてくれないだろう。大いに笑い、泣いている内に、物語はフィナーレを迎えてしまうからだ。
だが、きっと劇場を後にした頃から、じわじわと玉三郎と有吉佐和子が処方した「フェイクニュース除けの薬」が効いてくるはずだ。
舞台は、6月2日から27日まで、歌舞伎座で。
INFORMATION
「六月大歌舞伎」
2022年6月2日(木)~27日(月)
劇場:歌舞伎座
https://www.kabuki-bito.jp/theaters/kabukiza/play/761