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昭和天皇を物語の中心に据えた、他に類例のない面白い歴史小説

昭和天皇を物語の中心に据えた、他に類例のない面白い歴史小説

文:杉江 松恋 (書評家)

『昭和天皇の声』(中路 啓太)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

 田中は逮捕された後に転向するが臨済宗の僧侶である山本玄峰と出会って宗教者として回心し、同時に天皇の信奉者となる。彼の数奇な人生を描いた一篇で、この中に出てくる会話の一節が、実は「地下鉄の切符」の重要な伏線になっている。読者の興を削ぐといけないので細かくは説明しないが、明治憲法と敗戦後の憲法で国家体制は大きく変化した、という通念がある。だが、その中で一つだけ変わらないことがあった、という発見がおそらく中路が『昭和天皇の声』という作品を構想した原点にある。それまでの三篇で状況が描かれ、「転向者の昭和二十年」で理解に至るための糸口がつけられる。そして「地下鉄の切符」で主題が大きく展開されるという連作の構成なのだ。

 前半三篇は、昭和天皇の統帥権を巡る群像劇になっている。明治憲法では国軍統帥の最高位には天皇が置かれていた。このため、国民選挙によって政権を託された内閣が軍の動向を掌握できないという事態が発生してしまう。政党政治は必ずしも潤滑に行われていたわけではなかったため、それに対する不満が現行政権を暴力で転覆させるべきである、というテロリズムに誤った根拠を与えてしまう。誤った、と書くのは、その暴力の担い手として利用されたのが軍だからである。本来は国体を守るべき軍が国体を破壊するために使われたのが一九三二年の五・一五事件であり、一九三六年の二・二六事件であった。

 巻頭の「感激居士」(二〇一八年十二月号)は、五・一五事件と二・二六事件の間に起きた出来事で、北一輝の思想に感化された相沢三郎中佐という陸軍軍人を巡る物語である。相沢は論理よりも自身の感情を優先するたぐいの人物であった。だからといって何ら悪意があるわけではなく、あくまでも正義のために行動しているつもりなのである。理路整然と説かれると議論を放棄して自分だけの世界に逃げ込んでしまう。「今は口の時代ではありません」などと相手の論理を否定するやり方は、「話せばわかる」と言った犬養毅を「問答無用」と射殺した五・一五事件の青年将校を彷彿とさせる。時代を支配していた空気を極端な形に煮詰めたのが相沢なのだろうが、彼の頑なさや、自らが正義であることを疑いもせずに他を攻撃する心のありようは、現代人にも共通したものを感じさせる。

 作者自身が言及しているように相沢こそは〈劇的アイロニー〉の主人公だ。間違った信念の持ち主がそれと気づかぬままに行動して悲劇を引き起こす。その皮肉を描いた物語であり、極端なキャラクターの持ち主を中心に据えた性格悲劇と言うことができる。

 続く「総理の弔い」(二〇一六年十二月号)は二・二六事件の一幕を描いたものだ。官邸で蹶起軍の襲撃を受けたものの、岡田啓介総理大臣は生き延びた。襲撃者が、岡田の義弟である松尾伝蔵陸軍退役大佐を彼と誤認して殺害したからだ。死んだと思われていた首相が生きていることを知った外部の者たちが、蹶起軍の包囲網を掻いくぐって彼をいかに救出するか、と作戦を練るというのが本篇の内容である。これは密室状況からの脱出劇と言えよう。三篇目の「澄みきった瞳」(二〇一八年四月号)は太平洋戦争の幕引きをした総理大臣である鈴木貫太郎と、その妻たかが主役である。鈴木も二・二六事件で襲撃を受けて瀕死の重傷を負ったが九死に一生を拾った。その彼がたかに対して発した言葉、はるか時代が降った後に彼女が夫の思いを汲んでとった行動と、その二つが初めは真意が伏せられた形で書かれ、物語の結末で明らかにされるという構成になっている。登場人物の動機を問う、ミステリーのような構成なのである。鈴木が侍従長として昭和天皇の信任篤い股肱の臣であったということが、後半の二作につながる伏線にもなっている。

 こうして見ると、本作の魅力が収録作の多様性にあることもわかってくる。異様な性格のもたらす悲劇、脱出劇の冒険譚、動機の謎で牽引するミステリー、数奇な生涯を送った人物の一代記と続くわけだ。それら物語の結節点に昭和天皇がいて、最終話でついにその中心人物が主役を務めることになる。「感激居士」に現代人の似姿を見出したように、各篇に時代を超えて今と通底する要素があり、それについて思いを巡らせるのも楽しい。

 私は『昭和天皇の声』を、わかりやすい物語への批判としても読んだ。あいつは悪だ、だから罰しよう。奴がいなければ世界は平和になる、ならば取り除こう。そうした単純明快な言説は支持を集めやすいが、大きな声を上げる者の怖さを常に忘れないようにしなければいけない。だからこそ作者は、声を発することなく自身の正義を貫こうとした人物として、昭和天皇を物語の中心に据えたのではないか。難度の高い課題に挑んだ結果、他に類例のない歴史小説が出来あがった。昭和史に関心がない読者にこそ本書はお薦めしたい。これほどおもしろい短篇集はめったにないからだ。慎ましく、そしておもしろい。

 極めて冷静に、可能な限り感情の爆発を排して、中路は昭和天皇という君主を描いた。空白を空白として、余計な色をつけないように細心の注意を払って。全体のしめくくりにあたる「地下鉄の切符」の結末は、だからこそ胸に迫るのだ。自分を語らない人の思いが、これほどまでに心を打つとは。声を聴こう。世界に放たれた、声なき人たちの声を。

文春文庫
昭和天皇の声
中路啓太

定価:803円(税込)発売日:2022年07月06日

電子書籍
昭和天皇の声
中路啓太

発売日:2022年07月06日

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