私が文学を志すきっかけは山田詠美だった。ある日、前情報もなにもない状態で『放課後の音符(キイノート)』を手に取った。十六歳のころだったと思う。
私はそのとき、大した読書もしていないのに文学に無為な憧れを持っていた。
私のなかに「書きたい」という欲望があって、それ以上に自分はなぜか「書ける」という確信があった。作家志望のありふれた自意識といまなら切って捨てることもできるが、しかしあの時期の、ほとんど文学作品を知らないのに「書ける」と確信してやまなかった私の身体感覚が、いまなお、小説家となった私の心身を支えるよすがとなっている。
そして同時に恋というものを私は山田詠美の小説を通して学んだ。山田詠美の作品群を網羅的に読む日々のなかで、誰かのことを思うとき自身に兆すあのままならない身体感覚を恋と呼ぶことを学び、翻弄される時期があった。
つまり、私は山田詠美に文学と恋を同時に教わったことになる。
『源氏物語』の例を持ち出すまでもなく、古今東西を問わずして「恋愛」は文学と相性がいい。とくに恋に身をやつす登場人物をたてた小説において、山田詠美の書くそれの没入感たるやすさまじく、この点においてはいまだ山田詠美の右に出る者はいないのではなかろうか。本作『ファーストクラッシュ』を読み、私はそうした思いをさらに強めた。まるで「恋をする」ように書くのだから。
ではなぜ文学作品のモチーフとして恋は頻出するのか。よく言われるように、恋が人間にとって普遍的体験であるという理由だけではない。それだけならば現在の文学における恋愛の存在感はもっと弱まっていてよい。恋愛をしない、興味がない人や文化もある。
私は山田詠美に文学と恋を同時に教わった。その二つが同時であったこと、そこに私にとっての鍵がある。つまり恋と文学には互いに切っても切れない関係に陥らざるをえない共通項が含まれている。先に結論を述べてしまうと、恋と文学はどちらもきわめて集中された身体の状況において陥る五感がもたらすものであり、そうした特殊な身体の状況において、恋と文学の交通は生まれやすい。私はこれを本作の読解を通じてあきらかにしたい。
たとえば新堂力が外の水道で上履きを洗う場面で、唐突に水浴びを始める以下の描写。
ある日、力は、思いも寄らない行動に出た。蛇口にホースを接続して、その一番はしを自分の頭上に掲げ、流れ出る水を浴び始めたのだ。
夏を思わせる暑い午後だった。力は、水の噴き出す先端の部分を指で押しつぶして、シャワーを浴びるかのように自身に向けて楽しんでいた。目を閉じ、口を開け、足を踏み鳴らし、あたかも雨乞いに成功した原始人のように歓喜の中にいた。
呆然としたまま、私は、ただ力に心奪われていた。やがて、猛烈な喉の渇きを覚えて我に返った。あれほど旨そうな水を見たことがなかった。飲みたい! ごくごくと喉を鳴らして、飲みたい。どんな泉から湧くのより、たぶん、はるかに、おいしい水。
「初恋」における「クラッシュ」をあらわすに見事な描写である。語り手の「私」こと咲也が見る景色からはじまるこの場面で、咲也の視覚は一瞬で他の五感に接続されていく。「やがて、猛烈な喉の渇きを覚え」た咲也は力の浴びるその水を「飲みたい!」と欲望し、それを現実にしてしまおうかと「想像しただけで胸がどきどきした」。
人間は世界の情報のほとんどを視覚から得ており、だからこそ多くの場面では視覚から他の五感情報に接続したりしない。つまり、このように接続する五感の速度、それを強く要請する身体の集中状況こそが恋の本質といえる。ふだん見えないものを見、感じない五感を感じる。
ある知覚がべつの知覚に接続され、またその知覚がべつの知覚を呼ぶ。限りなく集中された知覚が向かう先は一点、恋の対象である力の身体である。つまり、このとき咲也の集中された身体感覚の行く先はすべて力の身体感覚を想像し、追体験することに集まっている。このとき咲也は力のとった思いもよらない行動により、力の体験していることをまるで自分の身体でしていることのように想像し、半ば体験している。
このとき「クラッシュ」されたのは咲也であると同時に力でもある。どういうことか。この場面で咲也は力の身体が体験している水のつめたさ、気持ちよさ、ひいては美味しさのような知覚の想像に集中し、半ば“力の身体になっている”。しかし現実はもちろんそうではない。それは咲也の想像する力の身体でしかなく、厳密には力がどう感じているかは分からない。つまりこの場で水浴びを知覚しているのは咲也でもなく力でもない、咲也の集中された知覚が生んだあらたな肉体である。