そこに言葉を沿わせていくのは経験である。ちかしい出来事や認識を得ることにより言葉が、「ファースト」の衝撃を事後的に規定する。しかし、二度目の出来事や似た認識は、すでにその鮮烈さを失っている。それぞれの人生でなる恋の身体感覚。それは唯一無二のもので、だからこそたやすく表現されない。しばしば人は恋をしたときの感覚を言葉にしようと目論み、出てきた言葉に「なんて陳腐なんだろう」とガッカリもする。しかしそれが陳腐なのは、恋をした時の身体感覚で見る世界がみなありふれていて、似たようなものであるからではない。むしろ真実は逆で、恋をした人間の身体感覚がそれぞれ異質であるがゆえに、言語化のきわめて難しい状況に追い込まれる。そして、なんとなく腑に落ちる、きわめて一般的な認識や言葉に吸い込まれ、そこに安住しようとするせいだ。しかし文学とはつねにこうした認識の安住に抗するものである。だからこそ恋と文学は蜜月関係にありつづけたのだといえよう。
『源氏物語』において和歌の存在があの巨大な物語の鮮烈さを担保する、そうした正統を踏襲するかのように、『ファーストクラッシュ』では三姉妹と力の身体が出会う鮮烈さが言語化を待たずさまよう、その先に詩の経験がある。島崎藤村、中原中也、寺山修司のそれぞれの詩の体験を経由して三姉妹は事後的に言葉を獲得していく。しかしそれは通常の恋愛のように「ファーストクラッシュ」の衝撃を和らげるものとしてではなく、むしろその鮮烈さを強化する。本作における詩の導入は「ファースト」の衝撃を「ファースト」のままで描出するという本作の性質において必然性がある。詩というのもまた、言葉とそれを生み出す身体が帯びる特異な集中との衝突により生まれる言語表現であり、いわば言語と身体における「ファーストクラッシュ」の根源といえるからだ。ある種の詩は、身体が初めて経験する知覚を戻すような、生まれたばかりの身体が世界を初めて見るような経験を仮設する。これは「初恋」の経験そのものではなかろうか。
この小説で三姉妹は初恋の瞬間を二度経験する。一度目は三姉妹が力の肉体の鮮烈さと出会う身体の経験。二度目はその経験を言語化できないままに詩と出会う言葉の経験である。通常の恋愛小説のように初恋をその後の経験により再規定され、慣れ親しんだ認識として描くのではなく、初恋のその衝撃そのものを書く。ほんらい一瞬の経験であるはずの「ファーストクラッシュ」を維持する小説として運動をつづける。そうした不可能性を潜り抜け成立しているのが本作である。だからこそ、力の肉体に強烈な印象を受けた三姉妹のあの一瞬の知覚がこれほどまでに鮮やかに描かれ、また読者としての私たちもそうした描写をより生々しく受け取ることになる。
紋切りの認識に落ち着き、経験を矮小化して理解する、あんなものは大したものじゃなかったのだと、そうした整理を経ることによって大人になったつもりでいる、そんな生ぬるい経験を山田詠美は許さない。それは人間それぞれの運動や集中を裏切る行為であるからで、本作をもって山田詠美は読者ひとりひとりの「ファーストクラッシュ」の多様性、ひいては生の鮮烈さを強烈に肯定する。
以上の読解を通じて、私は私自身の恋と文学の原体験をようやく「思う」ことができる。『ファーストクラッシュ』を読むことで、いわば私は私の初恋を、ようやくそれらしい言葉ではない一回限りの衝撃として、思いだすことができるのだ。
いまだ私は恋をしている。山田詠美に。そして文学に。その両者を峻別することはできない。山田詠美の本を初めて手にしたあの日の記憶が小説を書く私をいまだ奮い立たせるのは、根拠もなく「書ける」と確信していた十六歳のころの記憶がもたらす身体感覚が、恋のもたらすそれに酷似しているせいだ。
すなわち、これが、私のファーストクラッシュである。