特異な集中によりあらたな身体が要請される。これが文学との共通点になる。恋により集中された身体が新たな知覚、新たな肉体を生み落とすように、作家は描写や登場人物を生む。言葉を書くことに集中された身体は通常生活時には感知しえない知覚、感知しえない世界を言葉とともにつくりあげる。そして今はもうこの世にいない作家の身体もかつてそうした特異な集中において作品を生んできたこと。ひとりの作家の生を越えて連なる身体、その営みの継続こそが文学である。こうした恋と文学においてともに要請される身体感覚の近似について、理屈というより運動として知り尽くした作家は、山田詠美をおいていないのではなかろうか。
集中された身体の生む知覚や言葉は、しばしば現実との齟齬を孕む。咲也が知覚し欲望するのは力の実相ではなく、あくまで咲也の知覚が欲望する幻想の力であるから、当然そこに軋轢は生まれる。このとき力が浴びていた水を「飲みたい!」と思った咲也は、しかし時を置いてその水を飲みに行くことはしない。実際にその水を飲むことではなく「飲みたい!」と湧きあがるその衝動こそが恋だ。しばしば恋は「盲目」であり、文学でつかわれる言葉は日常生活内での言語に比べ扱いづらく、すぐさま理解できるとは限らない。だからこそ、幸福に成就された恋や文学のもたらす知覚は自分ひとりの身体の味わうものとは一線を画す。恋の絶頂によって、また傑作となりうる文学作品によって私たちは世界と一体化するような全能感を味わう。
作家の身体にきざした想念が言葉と出会う。作家の知覚と言葉が新たな場で「クラッシュ」しつづける。しかし、その先に正解や真理があるわけではない。恋も文学もともに正答のあるものではなく、だからこそ幻想や錯覚を重ねてそれらしきものを探りつづける。そうした存在しない真理へ向かおうとする志向こそが恋や文学なのであり、私たちは近づくべきあるビジョンを目指している状況の連続、常にその渦中にいる。そのように人は恋をして文学を求め、文学を読んで恋をする。恋と文学はしばしばそれのみでは辿り着きえない真理を補いつづけ、補完しあう存在となる。そうした仮説のもっとも説得力ある強度として存在しつづけるのが山田詠美の作品である。
水浴びをしている力のまとう水、「……おなかがくちくなれば……なんでもいいです」という力の声、「犬仲間」である力がする「縄張り」としての放尿。力の肉体から発せられる印象的な場面が三姉妹の身体に特異な集中を要請する。こうした集中にかられた身体が認識した知覚は、しかし即座に規定されうる言葉をもたない。人は厳密には初めてする経験を即時的に言語化することはできない。そこにあるのはただ混乱、錯綜、そういった情緒にすぎず、そうした状態を鎮静化するべく身体は勝手に似たような情報を探す。身体の覚えているちかしい経験や先人の表現からそのヒントを得なければ、私たちの認識は途方に暮れるばかりである。そしてもたらされる情報はふたたび訪れる恋の状況であったり、恋愛を扱った作品や伝聞によって得られるちかしい表現であったりする。
しかし本作は初恋を扱った小説であるから、初めて対象に恋をする「ファーストクラッシュ」にふさわしい衝撃のみが描かれる。それらは通常の恋愛小説のように恋の状況を重ね、ある意味で最初の経験が褪せていき「恋愛」状況に慣れていく、そういった展開を踏む作品ではない。あくまでも初恋時の未熟な認識によりたやすく言葉によって整理されない、そうした衝撃を含んだ描写のみでつくられている。本来言語化されえないはずの認識が言語化される。だからこそ『ファーストクラッシュ』は新たな恋愛小説の傑作としてその存在感を発するのである。
通常、初恋とはつねに次の恋愛状況によって言語化され、振り返ることで規定されうる性質をもつ。だからすべての初恋は嘘であるし、フィクションということもできる。初めて恋におちる瞬間の、ほんとうの「ファースト」は言語化しえない。だから力の身体に鮮烈な印象を覚えた、この時点の三姉妹には言葉がない。
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