人情味あふれる時代小説で人気の山本一力さん。単行本デビューは2000年の『損料屋喜八郎始末控え』で、以来、作品はシリーズ化され、今回第5弾となる『固結び』が刊行された。山本さんが、デビュー当時のことやシリーズへの想いを語る。
1997年に「オール讀物新人賞」を受賞した山本一力さんだが、初の単行本が世に出るには、3年余りの歳月が必要だった。
「あの頃は新人賞を取って、何でもやれると思っていました。書けば雑誌に載せてもらえると。ところが、担当編集者に原稿を渡しても渡しても、全部ボツで。思わず声を荒らげて、なんであなただけしか読んでくれないのか、と問い詰めたこともあります。そうしたら、僕はあなたの味方です、この段階で編集長に原稿を読んでもらってボツだったら、次に読んでもらうチャンスはなかなか来ないから、と言われて、本当に目が覚めました。
物の見方は一方から見ただけではだめだ、向こう側から見た時にまったく別の見方があるのだと、彼との対話で教わりましたね。そこから小説も、たとえば一人称一視点ではなく、三人称多視点の良さというのも分かりました。
その後、担当者が代わって、仕切り直して思いっきりやろうと書き始めたのが『喜八郎』です。4、5回原稿のキャッチボールをして、これで良くなりました、と合格をもらったのかと思ったら、今度はここから削りましょう、と言われて(笑)。さらに手を入れて3分の2くらいに削ったものが、第1作目となりました。
第1作が『オール讀物』に載った時は、本当に嬉しかったですね。あの時は宇江佐真理さんと乙川優三郎さんと、3人一緒に目次に並んだんです。私たちは第75回から77回のオール新人賞受賞者で、おふたりはすでに一枚看板でしたが私だけ無名。でもオール新人賞出身者が3人も並ぶのは珍しいんだと、編集部にも喜んでもらえました。
まさかそこから、『喜八郎』が今に続くシリーズになるとは思わなかったですね。いろんな人の力を借りて……。じつは喜八郎という名は、かみさんの亡くなった親父の名前なんです。だからここに至るまで、いつも喜八郎さんに背中を押してもらっているような気がしますね」
主人公は、庶民相手に鍋釜など所帯道具を賃貸しする損料屋を営む喜八郎。じつは元同心で、口数が少なく愛想もない、細面の両目は深く窪んで瞳は鋭く、相手が武家でも博徒でも動じない。
「ハードボイルドの時代物をやりたい、と考えていました。喜八郎は父親が浪人のまま死んだ貧乏武家ですが、知恵があり有能で、一代限りとはいえ同心に引き立てられた。ところが上役の不始末を隠蔽するために詰め腹を切らされたという過去がある。そんな男が、自分の内から湧き上がる怒りを傲慢な札差にぶつける、という物語に仕上げたわけです」
喜八郎の人物造形はいまもあまり変わらないが、巻数を重ねるにつれ、周囲の人物たちには変化がみられる。たとえば第1作では喜八郎の敵役のようだった大物札差の伊勢屋四郎左衛門は、最新作では喜八郎の父親代わりのような存在だ。
「最初の単行本を出した後に資料を読んで知ったのですが、伊勢屋は、松平定信が断行した棄捐令であれほど痛めつけられたのに、手代をクビにしていないんです。これはすごいことで、当時の札差の大半が店を小さくしているのに、彼はそれを切り抜けて、なおかつ奉公人を大事にした。そういう力量のある人物だと知るにつれ、自分の狭かった理解が広がって伊勢屋という男が好きになり、甘くはないけれど懐が深い人物として描くようになりました。
登場人物は紙の上だけではなしに、つねに私の頭の中で走り回っているんです。その走り回って変化している様をいかに筆に下ろすか、その戦いが小説を書くということだと思います。
たとえば池波正太郎さんの『鬼平犯科帳』は、巻数を読み進むほどに、鬼平ではなく周辺の人物たちが人間として大きくなっていると感じます。書き続けていったとき、登場人物が大きくなり、奥行きが深まるというのが物書きとしてひとつの憧れなので、そうなるように常に心掛けています」
さて、読者が気になるのは喜八郎と料亭の女将・秀弥の関係だ。山本さんは、当初からふたりが想い合う仲になると考えていたというが、なかなか進展しなかった。それが最新作では、ようやく大きな一歩を踏み出すことになる。
「好きあったふたりが結ばれるというのは、いつの時代も変わらず、当人たちの腹のくくり次第じゃないでしょうか。ふたりの“決め”が必要です。
今回、作中の1篇『初午参り』を書くにあたって、初めて京都の伏見稲荷大社に行ったんです。あそこは参詣するとなると山登りに近くて、そこにお参りに来るということの重さを実感しました。よほど腹のくくりがないとここには来られないな、と。その体験で、まず自分の中で秀弥が決まってきた。
秀弥の来し方行く末を考えると、彼女が背負っているものの第一は料亭・江戸屋を継いでくれる跡継ぎを授かる事です。これが秀弥に課せられた大きな使命だということを、『初午参り』を書きながら思いました。そうして、幼い日の秀弥が父親と伏見稲荷に参詣した過去と、自分の使命を果たそうとする決意が重なった。
一方で、喜八郎も一歩を踏み出すためには、何かを“決め”なければいけない。これには『初午参り』に出てくる心中を図った男女のその後の腹のくくり方が、影響したのかもしれない。そう考えていって、今回の『固結び』という作品に仕上がりました」
喜八郎と秀弥の仲が進展し、シリーズは新たな展開を迎えそうだ。
「喜八郎は損料屋を徐々に番頭の嘉介にゆだねていくけれど、やはり旦那であり司令塔です。でもこれからは、江戸屋との係わりをどうしていくか。そして秀弥は、喜八郎と結ばれ跡継ぎを授かる身として、この先、何を思い願っていくか。そのふたつが、物語の通奏低音として流れていくでしょうね。読者の方にこの先を楽しみにしてもらえるなら、こんなに嬉しいことはありません」