- 2023.02.16
- 書評
長い長い夜が終わるまで阿部和重は疾走する――『Orga(ni)sm』の文庫化を祝って
文:柳楽 馨 (文学研究者)
『オーガ(ニ)ズム 上下』(阿部 和重)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
こうも反復の多い阿部作品は、『Orga(ni)sm』が最初で最後かもしれない。ママである「川上」が留守なので、まだ三歳にもならない映記は「パパー、パパー、パパー、パパー」とひたすら「阿部和重」を呼ぶが、こういった反復ならこれまで通り、喫緊の事態を告げる警報に似た言葉とみなせる。『シンセミア』の小悪党・金森年生が再登場して、『Orga(ni)sm』終盤では「みつあきぃ、みつあきぃ」と悲しげに息子を呼ぶ。それは『ピストルズ』の菖蒲みずきとともに、ひそかに「オバマ大統領」を狙う少年・田宮光明のことだ。父と息子のどちらがどちらを呼ぶのかなどの違いはあるが、これらの言葉の反復はまだ理解できる。しかし、「電話が鳴って目ざめたが」のような語句までがなぜ反復されるのか、いまひとつわからない。
以下はあくまでも仮説だが、『Orga(ni)sm』に先だって、阿部が伊坂幸太郎との合作で『キャプテンサンダーボルト』を書き、そして蓮實重彦の『伯爵夫人』の批評を書いたことがヒントになる。『Orga(ni)sm』を書くにあたり、「自分以外の著者の言葉に深くかかわること」が大きな助けになったと阿部は語っている。その『伯爵夫人』論で阿部は、たとえば歯ブラシで歯を磨くときのような「異種同士による摩擦運動」に注目した。なにかとなにかがゴシゴシと擦れあう運動もまた「反復」の一種であり、ここで性交が想起されるのは偶然ではない。現に阿部は『シンセミア』で、男性器を意味する「魔羅」を、「摩擦」の「摩」で「摩羅」と書いていた。阿部は、反復することで、ふと何か反復しえないはずのもの、ほんとうに新しい一度きりのなにかを生み出そうとする。反復しえないものの反復とは、たとえば、ありもしなかった出来事が過去の記憶としてよみがえることだろう。『Orga(ni)sm』の「阿部和重」はだしぬけに、「そういえばあの日も雨だったと思いだす。笑い疲れてベッドから起きあがれず、薄暗い静かな部屋で雨音を聞きつつじっとしていた夏の午後の情景がよみがえる」。しかし『Orga(ni)sm』のどこにも、この雨音の響く夏の日がいつだったのかを示す記述はない。その日が何年何月何日の何曜日かまで書いてしまう阿部らしからぬ例外的な「あの日」は、何度読んでも私にとって『Orga(ni)sm』のもっとも印象的な箇所のうちのひとつだ。今回、文庫版で改めてこの箇所を読んで私は、青山真治『サッドヴァケイション』のなかで、大降りの雨の朝に部屋の窓の外へと手を伸ばした浅野忠信が、ともに暮らしはじめた中国人の少年に「雨」や「空」といった単語を教える場面を思いだした。ただの感傷かもしれないが。
このありえない夏の日の雨の記憶は美しいが、その情景が即座に「レゴブロックみたいにくずれだして」しまうのは、おそらく、この場面全体がアイソレーション・タンクのなかで眠る「阿部和重」の夢だからである。孤立した人間の反復は不毛だ。自分の性器を自分で擦るだけの反復からは新しいものが生まれない。阿部にとっての伊坂や蓮實のように、「阿部和重」にはアメリカ人ラリー・タイテルバウムが必要なのだ。『Orga(ni)sm』の終盤でラリーは、任務よりも三歳の映記を守ることを優先し、そのために狙撃されて倒れる。
そこへ駆けよっていった阿部和重は、わが子の名を呼ぶより先に血まみれの中年男の名前を連呼し、ふらついている相手に両手をさしのべて今にも倒れそうな体をささえてやった。
「ラリーさん? ラリーさん?」
「Okay, okay」
「ラリーさん」と「Okay」の反復は一目瞭然だが、ラリーの返答が全角アルファベットの「OK」ではなく半角の「Okay」であることを見逃してはならない。日本語の達者なラリーとは違って、「阿部和重」にはネイティブスピーカーと話せるほどの英語力はない。だからラリーが「阿部和重」のまえで英単語“okay”を使うとき、つねに日本風の縦書きで「OK」と書かれるが、『Orga(ni)sm』全体でここだけはそれが「Okay」になる。これは、日本人とアメリカ人が、お互いの差異を消すことなく、日本語と英語のままで実現させた対話なのだ。それは奇跡と呼ばれるに値する。
『Orga(ni)sm』の最後では、二〇四〇年、かつて日本と呼ばれていた国がアメリカ合衆国の五一番目の州となってから一〇年が経過していることが語られる。「七二歳になっても英語力の向上が見られない阿部和重」が、カリフォルニア州バーバンクにむけて車を走らせていると、「かつてハリウッドサインと呼ばれていた看板」は、「HOLLYWOODのLがひとつ抜けてHOLYWOODになってしまっている」。それは映画を愛する(元)日本人、つまり阿部和重のような人物の仕わざに決まっている。地名Hollywoodを「神聖な森林(holy wood)」と誤解して「聖林」という当て字を用いた日本人は、こうしてアメリカを内側から変化させて融合する。この場面には、ルビ付きで「聖林(ハリウッド)」という表現を用いた蓮實重彦『伯爵夫人』の記憶が流れこんでいるのかもしれない。それはそれとして、『Orga(ni)sm』の締めくくりに阿部が引用した「夜明けを見るまで生きられますように」という願いをこめた言葉を読んだ瞬間、ひとは、疾走を続けるこの小説家のデビュー作が『アメリカの夜』だったことを思い出す。アメリカのみならず世界をつつむこの暗い夜の終わりを目撃するには、我先に阿部和重の車に乗りこむしかない。そして、阿部和重のすべての小説を読んでは読み返しながら過ごす、長い長い旅に出るのだ。
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