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世はまさに雑誌の時代。快進撃を続ける「文藝春秋」の本当の立役者は、菊池寛でも、芥川龍之介でもなく、無名時代の直木三十五だった!?

世はまさに雑誌の時代。快進撃を続ける「文藝春秋」の本当の立役者は、菊池寛でも、芥川龍之介でもなく、無名時代の直木三十五だった!?

門井 慶喜

『文豪、社長になる』(門井 慶喜)


ジャンル : #歴史・時代小説

 ともかく、同人会議である。直木はもう口をきかぬと見て、寛はみんなへ、

「まあ次号が大事だというのは本当だ。どうするね」

「創作です」

 と即答したのは横光だった。長い前髪をかきあげて、

「新企画の必要を言うなら、やはり創作を載せなければ。力のこもった小説を」

「集まるかね。いまから」

 と佐々木味津三が言った。味津三はどういうわけか円形の、弁当箱を伏せたような赤いトルコ帽をかぶって、首をゆらゆらさせている。横光は、

「きまってる。俺たちが書くんです。次号は無理でも四号か五号には……」

「外部の作家は? 誰にたのむ?」

「おい今(東光)君、君の師匠は谷崎(たにざき)だったな」

「精二(せいじ)か?」

「潤一郎(じゅんいちろう)だ」

「いやいや、あかん。俺ぁ不肖(ふしょう)の弟子やさかい」

「菊池先生から言ってもらおう」

「僕に頼るなよ」

 熱気あふれる議論のなか、直木はひとり窓を向いたままだった。寛はその無表情な横顔を見て、この男はいま、まちがいなく「文藝春秋」のことを考えていると思った。次号どころか、はるか未来のことまで考えてくれている。

(直木君)

 いやな予感がした。今度はどんな道を歩かせて、どんなふろふき大根を食わせる気なのか。

 月刊「文藝春秋」は、第二号も好調だった。

 書店で目立つよう表紙を色刷りにして(創刊号は白黒)、あらたに「菊池寛編輯」の五文字を入れたのが功を奏したのか、四千部が完売した。

 第三号は六千部。第四号はさらに、清水の舞台から飛び下りるつもりで一万部刷った。数字だけ見ればもう同人誌ではない、堂々たる一般商業誌の域であるが、これもまた完売に近い成績をおさめた。

 第五号は「特別創作号」と銘打って、堂々十二篇の作品をならべた。さすがに谷崎潤一郎のものは得られなかったけれども、佐々木味津三、川端康成、石浜金作といったような同人のほか、滝井孝作(たきいこうさく)、片岡鉄兵(かたおかてっぺい)など外部の筆者も力作を寄せた。みな新進作家だった。

 当時の文壇情況は、一般に、

 ――沈衰。

 ――停滞。

 などと評されていた。

 作家の檜舞台というべき「中央公論」や「改造」、ないし各文芸雑誌などは登場する面々が固定化し、その面々も、ジャーナリズムの発展にともなって仕事がふえたからだろう、なかなか世評を惹くような仕事ができなかった。駄作ではないが傑作でもない、ぬるま湯のごとき出来ばえの連続。そういう空気のよどみのなかへ、この号は、たしかに清新の気を吹きこんだのである。

 もちろん横光利一も一篇を寄せた。題は「蠅(はえ)」。ごく短いものだったし、ストーリーも要するに馬車が人を乗せたまま崖から落ちたというだけのものだったけれども、その落ちた一瞬を、馬の背から飛び去る蠅の視点から描いてみせるなどの映像的な斬新さが評判になった。

 同年同月、春陽堂の文芸雑誌「新小説」に掲載された中編小説「日輪」もまた話題となったので、横光は一躍文壇にみとめられ、同人の出世頭となった。現在は両作とも岩波文庫版『日輪・春は馬車に乗って 他八篇』などで手軽に読める。時代をこえた古典になったのである。

 こうした「文藝春秋」の快進撃には、寛もあちこちで讃辞をあびた。

「大したものだ」

 とか、

「商売上手」

 とか、

「菊池さんには、親分の才もあったんですな」

 とか。その反面、

 ――あの雑誌は、下品だ。

 というような評判もちらちら耳に入って来た。

 寛はこのころ、自宅を引っ越しして、本郷区駒込神明町(しんめいちょう)三一七に住んでいる。和風建築の母屋のほかに洋館もついている広壮な家だったけれども、ふだん洋館はあまり使わず、この日も上野精養軒での会合をすませて帰宅すると、母屋に入り、二階へ上がった。

 同人用に開放している八畳間に入った。西日のさしこむその部屋では、直木がひとり、こちらに背を向け、うつむいて、どうやら原稿を書いているらしい。寛はその後頭部へ、

「ほかの連中は?」

「………」

「君は、何してる」

 直木はあくまで振り返りもせず、

「埋草(うめくさ)だ」

「ああ」

 寛は、返事にこまった。埋草というのは雑誌の誌面にやむなく生じる余白を文字どおり「埋める」雑文のことである。たいてい無署名または匿名で書かれ、書いたところで筆者の業績にはならない。

 野球でいえば球ひろい。純然たる裏方仕事。直木より七つも八つも年下の横光や川端などが最近は商業雑誌からも注文が来ていることと、つい胸のうちで比べてしまう。

「ご苦労さん」

「………」

「だがその埋草で、ちょっと困っている」

「………」

「われわれの雑誌が、或る種の連中に……下品と呼ばれる原因になっている。わかるな?」

「ゴシップか」

 と、直木が言った。寛は、

「そうだ」

 例の、直木の新企画だった。第二号から掲載されている。題も形式も毎回ちがうが、内容がいわゆる文壇ゴシップ、つまり作家の仕事や私生活をときに興味本位に、ときに露悪的に、あげつらう記事であることは変わらなかった。

 毒舌ならぬ毒筆である。たとえば第二号掲載の「文壇百人一首」では、

 久米正雄

 主婦の友、脚本活動印税と

 久米の正雄に金は降りつつ

 といきなり同人を槍玉にあげる。読者は久米の金満ぶり、および作家のくせに小説に集中していない俗物じみた生活ぶりが印象に残ることになる。

「文藝春秋」第2期同人  菊池寛(前列左)と(後列左から)斎藤龍太郎、芥川龍之介、宇野浩二、久米正雄、佐佐木茂索、直木三十五

 あるいは、第四号の「文壇新語辞典」。

 ぼうりゅうさっか(傍流作家)

(名)主流作家に対してその他の作家を云う。一生涯かかっても流行作家になれぬ作家。例、宇野喜代之介。松岡譲、若月保治、三島章道

(名)とは名詞の意なのだろう。何といっても「例」に出たのがみな実在存命の作家であることがぶっつけである。なるほど彼らが傍流であることは、或る程度、世評を反映するものではあるが、それをこう堂々と、証拠もなしにやっつけるのは特別な神経が要る。または神経の欠如が要る。

「実際、若月(わかつき)さんから抗議状が来たよ。いや、ちがう、若月さんの弟子からだ」

「自称弟子だろう」

「そうかもしれん」

「で、どうだ」

「どうだとは?」

「やめろと言うのか」

 直木はそう言うと万年筆を置き、こちらへ首をねじまげた。

 背丈があるので、キリンが振り返ったような感じがする。目は怒っているようだった。

 寛は視線をそらし、机の上の原稿を見た。ちらっとしか見えないが、題のところに大きく「文壇」の二字が見えるのは、おそらく次号用のゴシップなのだろう。

「どうなんだ。菊池君」

 と重ねて聞かれて、寛は直木を見た。正直に、

「迷っている」

 と答えると、直木はきゅうに首を垂れて、

「俺のことなら、気にするな。仕事なら自分で見つける」

 めずらしく弱気な発言だった。やはりどこか後ろめたいのかもしれない。寛はそっと首をふって、

「君のことは、気にしてない」

「何だと?」

「読者のことを」

「どういう意味かね」

「好評なんだよ」

 と、寛はまるで不評の話でもしているかのような苦い顔になって、

「君のゴシップは、読者にかなり好評なんだ。手紙は見たか? どうせ見てないんだろう。あとで持って来させるが、東京はもちろん地方からもたくさん届いてる」

「ほう、ほう。もっとやれと」

「そういう声もある。もうやめろという声もある。なかには僕に向かって、こんな記事を掲載していたら菊池先生の名誉に傷がつきますと案じてくれるご婦人もあるくらいだ。しかしやっぱり好評だな。よくぞ言ってくれたというような」

 などと教えてやりながら、寛自身、

(民衆が、こんなに醜聞好きだったとは)

 意外の感がぬぐえない。こんなこと明治の世ならあり得なかった。作家というのは「言葉」という聖具をもちいて芸術の神にその身をささげる聖職者、ないし殉教者であるという通念が書き手のほうにも読み手のほうにも多少はあったような気がする。その醜聞をあばくなど、それこそ一種の冒涜だった。

 それが、いまはどうだろう。この大正デモクラシーなる民衆の世では作家はもはや聖職者や殉教者などではなく、官吏や、将校や、博士や、財閥の重役や、大地主などとおなじ俗界の人間にすぎない。

 あるいは俗界の名士にすぎない。そうして名士に対しては、民衆は嫉妬する権利がある。かくしてゴシップの出番である。ゴシップとは名士がほんとうは自分とおなじ凡庸人であるという当たり前のことを暴露して、それによって嫉妬の症状をやわらげる一時的な解毒剤だからである。

「率直に言おう、直木。君の書くものは痛しかゆしだ。雑誌の品位のためにはやめてほしいが、売り上げのためにはつづけてほしい」

「わかった」

 この男にはめずらしく、返事の声が大きかった。

 直木はその後、ゴシップの執筆をやめるどころか、いよいよ意気込んで書くようになった。ひょっとしたら激励と受け取ったのかもしれない。その内容は号を追うごとに辛辣(しんらつ)になり、遠慮がなくなった。右の話し合いから約半年後、大正十三年(一九二四)二月号には「文壇名流女見立」なる記事が掲載されたが、これは、

 女優 久米正雄

 女中頭 徳田秋声

 女学生 生田春月

 といったように作家にひとつずつ女の肩書きをあてがって、その由来という口実でもって彼らの作風をあるいは揶揄(やゆ)する。あるいは私生活に筆誅(ひつちゅう)を加える。

 偶像破壊の快感に、さらに女性の社会進出という都会の最新風俗をうまく噛み合わせたわけだ。何しろ鬱然(うつぜん)たる大家まで、

 婆芸者 泉鏡花

 などとやっつけている。分量も多かった。とりあげられた作家は二十三人。見ひらき二ページを占領した上、最後のところは数行の余白を残しているのだからもはや埋草ではない、堂々たる企画記事である。逆に言うなら、こういう企画をもう誰も制止できないくらい、それくらい読者の反響は大きかった。

 ゴシップ路線の頂点は、同年十一月号にあらわれた「文壇諸家価値調査表」だった。

 以下「調査表」と記す。これはあたかも学生児童の成績表のごとく作家のもろもろを採点するもので、縦横の罫の引かれた文字どおりの「表」が、何とまあ三ページもの誌面を占領している。

 もはや企画記事どころか一大特集である。例を挙げれば(表中の漢数字は算用数字に直した)、

 芥川龍之介

   学殖96 腕力0 未来97

 南部修太郎

   学殖0 人気6 性欲88

 宇野千代

   学殖32 度胸88 性欲86 未来10

 こういう調子で有島武郎(ありしまたけお)、泉鏡花(いずみきょうか)、谷崎潤一郎といったような大物から無名に近い書き手まで、総勢六十八名をとりあげたのである。

 まさしく「文藝春秋」の発したゴシップの大砲。寛は迂闊(うかつ)にも、それを見本刷りで知った。

(これは、来るな)

 苦情がである。

 校了前に見ておけばよかったと思った。このごろは「文藝春秋」もずいぶん分厚くなった上、寛自身、ほかの仕事がいそがしく、全部の原稿にはとても目が通せなかったのである。表のなかには直木や寛の名も入っているし、また直木には修養20、腕力20などと低い点数もついているけれども、そんなもの、何の迷彩にもなりはしまい。

 はたして、来た。

 読者の手紙が来た、文壇顰蹙(ひんしゅく)の声が来た。しかしいちばん敏感に反応したのは、この場合、ほかならぬ同人仲間だった。

 横光利一が激怒したのである。その十一月号をわしづかみにして今東光の家へ行き、

「こんなのを載せては雑誌は低俗になるいっぽうだ。もうついて行けん」

「ああ、そうだ。君の言うとおりだ」

 これだけ怒るところを見ると、横光も今も、やはり事前に原稿は見ていなかったのだろう。このころふたりは川端康成、片岡鉄兵、佐佐木茂索、佐々木味津三、菅忠雄らとともに「文芸時代」という名の、よりいっそう純粋に文学的な、よりいっそう創作中心の、よりいっそう理想主義的な同人雑誌を創刊していたから、そっちのほうへ気が向いていたのにちがいなかった。

 横光と今は、それぞれ反論の文章を書いた。それらは「文藝春秋」への苦言というより攻撃に近く、菊池寛に対して、

 ――絶交する。

 と宣言したも同然の内容だった。

 書きあげてしまうと原稿を封筒に入れ、切手を貼り、近くのポストへ投げ入れた。横光の宛先は「読売新聞」、今のそれは文芸誌「新潮」。それぞれ懇意の記者または編集者がいたからである。最近の話題性を考えれば、どちらも没書にはならず、すんなり掲載になることは確実だった。

 そうして横光は、その足で、千駄木(せんだぎ)の川端康成の下宿へと歩いて行った。今は自宅に帰って本を読んだ。これがふたりの運命をわけた。川端は事の次第を聞くと、ふだんは大きな声など出さないのに、

「それは、だめだ」

 と、横光を説きに説いたのである。

「君ははっきりと菊池寛の門下生だ。僕もそうだ。少なくとも世間はそう見ている。なるほど君も僕もずいぶん前から創作活動をしてはいたが、名が上がったのは『文藝春秋』がきっかけなのだから。それに生活卑近(ひきん)の面で言っても、僕たちはどれほど菊池さんの家で鰻丼を食ったか、酒を飲んだか。僕はただの一銭だって払ったことはない。君もそうだろう」

「………」

「今回の雑誌のこともそうだ。僕たちが『文芸時代』を出したいと言ったら、菊池さん、あんなに不愉快そうな顔をして、結局は出陣祝いの金をくれた。『文藝春秋』の低級なゴシップ路線をあきたりず思う心は僕もおなじだが、それをわざわざ天下にさらして菊池さんに恥をかかせていいかどうかは問題が別だ。自重しろ、横光君。そのほうが結局、君のためにも、僕らの『文芸時代』のためにも得策だ」

 横光は、目がさめた。

 ふたりして「読売新聞」へ走り、懇意の学芸部長に面会して、

「原稿は取り消す。返してくれ」

 学芸部長は困惑顔で、

「そりゃ困るよ、横光君。もう印刷部へまわしちまった」

「応接間を貸してください」

 横光は応接間を占領して、おなじ分量の、毒にも薬にもならない随筆を書いて差し替えてもらった。

 印刷はぎりぎり間に合った。こうして「読売新聞」には絶交宣言は出なかったが、今東光のほうの原稿はそのまま「新潮」十二月号に掲載された。タイトルは「文藝春秋の無礼」。

 寛は、読んだ。

 激怒した。今を呼んでも来ないので、「新潮」翌月号に反論の文を寄せた。例の「調査表」における諸家への無礼はいさぎよく認めて謝罪した上、ほかの今の主張をしりぞけた。そうしたら翌月に今が再反論の文章を寄せた。やっぱり感情的な文章だった。

 今は、もともと放埒(ほうらつ)な人間である。父親が日本郵船会社につとめるヨーロッパ航路の船長だったことから小学校の転校が多く、横浜生まれにもかかわらず函館、小樽、大阪、神戸と港町を転々とした。

 このことが、何がしか人格形成に影響をおよぼした。人間関係というのは永続しないもの、また永続すべきでないものと無意識に思うようになったのかもしれぬ。関西学院中等部でも、兵庫県豊岡中学校でも素行不良で退学を食らった。父親からは勘当された。

 上京して文学青年の生活に入っても女郎屋には入りびたる、友達は馬鹿にするで、いい評判は聞かなかったから、じつは「文藝春秋」創刊時にも寛はこの男の同人入りには難色を示したのだった。けれども、かねて今とは同人誌「新思潮」の仲間だった川端康成が、

「入れてください。彼が入らないなら僕が出ます」

 とまで言ったので入れてやった。川端にはこういうところがある。ふだんの老成ぶりの反作用ででもあるのか、きゅうに一肌ぬぐのである。

 それが結局、このありさまである。このたびばかりは川端もものを見誤ったと言うしかなかった。今はこの後「文藝春秋」同人を脱退した。

 いわば「文芸時代」専業になった。なお、これは半年後の話になるが、今はその「文芸時代」のほうも脱退して、べつの同志と語らって「文党」なる新雑誌を創刊して、その宣伝のためチンドン屋よろしく街を歩いた。

 胸と背中に看板をかけ、鳴りものを鳴らして、

 天下に生まれた文党だ

 値段が安くて面白い

 既成文壇討たんとて

 勇んで街へ出かけたり

 と放吟したという。

 要するに、文学よりも文学騒ぎのほうが好きなのである。「文党」は売れ行き不振であっさりと廃刊になった。今はその後もあちこちに書いたが存在感は薄れるいっぽうで、出家して天台宗の僧侶になった。

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門井慶喜

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