『天馬、翔ける』で中山義秀文学賞、『等伯』で直木賞を受賞し、ほかにも『信長燃ゆ』や『家康』など、名実ともに戦国歴史小説の第一人者である安部龍太郎さん。最新長編『銀嶺のかなた』は、加賀120万石の礎を築いた前田利家・利長の物語だ。
本作では「大航海時代」の視座に立ち、これまでの常識に囚われない歴史観で、信長がイエズス会と決裂した理由、本能寺の変後の秀吉の中国大返しの真相、さらに賤ケ岳で前田家の敵前逃亡がなかったことなどが、説得力をもって次々に描き出される。作者の安部さんは、新たに発見された戦国日本史をどのように描いたのか――。
◆◆◆
大航海時代の世界的視野から戦国時代を見つめて
安部 僕は戦国時代の小説を書くにあたって、従来の古い歴史観ではなくて、大航海時代を見据えた新しい価値観、新しい歴史観の流れの中で、信長と秀吉、あるいは利長と利家のような武将の動きを見たらどう見えるのか。背景にあるものをしっかり描いていくことを、ひとつ大きな心構えとしています。
たとえば、信長はイエズス会が奴隷として連れてきた黒人の弥助を、自分の家臣にしています。そうすると、イエズス会の宣教師たちがアフリカやインド、東南アジアでどんな搾取をしているのかを、彼からつぶさに聞いたんだと思うんですよ。そういう情報は、南蛮貿易をする過程でもいっぱい入ってきただろうし。イエズス会が言うことを、一面的に信用することはできないと、信長は徐々に考えるようになったと思います。
もっとも、当時はキリシタン大名もいましたし、その家中にも大勢のキリシタンがいる。堺や博多の商人たちも、大概、キリシタンになって貿易をしていますから、約30万人もの信者がいたと推定されています。こうした状況の中、宣教師のフロイスを追い出し、その教えには従えないと宣言してしまうと、織田政権は途端に不安定化したわけですね。
結果的には、明智光秀が本能寺で信長を討ち取ったわけですが、秀吉という男は作中で「超人」という言葉を用いましたけれど、信じられないくらい頭のよく回る人物で、おそらく側近だった黒田官兵衛を通じて、イエズス会の情報網から各大名家の動きを入手していた。そこで、前将軍の足利家や朝廷にも裏から手をまわして、光秀を操ったということも十分に考えられます。
賤ケ岳での前田家の敵前逃亡はなかった
――『銀嶺のかなた』では、さらに信長の亡き後、柴田勝家と豊臣秀吉が覇権を争った賤ケ岳の戦いにおける前田家の戦いぶりを描いています。従来、前田利家は秀吉の大軍を前に敵前逃亡し、大恩のある勝家を裏切ったと言われてきましたが、これに対しても異なる説を採用されています。
安部 小説を新聞連載するにあたって、この戦いにおける前田家の陣のあった場所は一般的にも特定されていますので、実際にその古戦場を自分の足で歩きまわって、史料だけではなく、地形もじっくり確認をしてみました。すると、勝家と利家が二手に分かれて豊臣方の根城を攻めるはずだったという通説は、北側にある惣構えというか、巨大な堀に阻まれてしまって成り立たない。むしろ佐久間盛政あたりが血気にはやって、抜け駆けをしたとしか思えないんですね。
では、なぜ利家が裏切ったかのように後世に伝えられたかについては、秀吉としては、前田利家を自分の家臣としてどうしても引き込みたかった。そのためには北陸の所領を増やして、盤石の体制を作ってもらいたい――しかし敵方についていた武将をそんなふうに優遇したら、もともとの味方の武将からの不満は免れません。その反感を和らげるために、利家が秀吉勢とは戦わない盟約が予めあったということに、後付けでしたのでしょう。
利家にしてみれば、高野山に追放してでもいいから、勝家を生かしてほしいという気持ちもあったし、かつての主君である信長の妹、お市の方の命を救いたい。いったんは秀吉もそれを認めた節もありますが、最終的には勝家の北庄城は攻め落とされ、お市の方も運命を共にします。ただ、勝家とお市の方は婚姻関係にあったと、これも長い間信じられてきましたが、宣教師が残した書状が見つかり、お市の方が結婚していたのは、勝家でなく実は家康だったということが、史料的に証明されています。
やはり、大航海時代の中での日本を捉えることで、こうした新しい発見もあるわけで、そうした意味での集大成に『銀嶺のかなた』はなっています。前田利家と利長という親子が、地方の一大名だったからこそ、かえって彼らの生き方がシンプルに解釈できたとも言えますね。
父が叩き上げ社長なら息子は最初から本社社長室勤務!?
――前田利家については、これまで司馬遼太郎さんの『功名が辻』や、大河ドラマ『利家とまつ~加賀百万石物語』など、正妻・まつとの関係を描いた先行作品があります。安部さんが父・利家と息子・利長という父子を物語の軸にした理由は?
安部 戦場で「槍の又左」と名を轟かせた利家は、すごい人間味のあふれたスポーツマンタイプで、野球で言うならきっと4番バッターを任され、フリーエージェントになったら、何億ももらって移籍するような武将だったと思います。ずっと信長に対して忠誠心を尽くした一途な律儀さがあり、確かに、妻のおまつには生涯、頭が上がらなかった(笑)。
ただ調べていくと、息子の利長は非常に優秀なんですよ。いわば利家が叩き上げで中堅企業ぐらいの社長になったとしたら、もう利長は最初から本社の社長室勤務で……要するに信長の近習として取り立てられて、先進的な信長の考え方をよく聞かされていた。そして同時期に仕えた蒲生氏郷や堀秀政ら優秀な若手と、大局観を踏まえた議論をしていたはずで、そこが面白いと感じました。
今までは戦国時代の親子の描き方を見れば、どちらかというと利長は父である利家に従属するものだ、という考え方もあったと思います。それもまったく違っていて、前田家が信長、秀吉、家康と権力者が移り変わっても、明治まで大大名として生き残れた理由は、利長が豊臣家支援の方針を覆したからなのが明らかです。あのまま利家の方針に引きずられて豊臣家に味方していたら、おそらく前田家は宇喜多家のように潰れていたはずです。
能登半島の皆さんを勇気づけたい……
――晩年、利家は後を継ぐ利長に対して、「お前は自分の信じた道を行くがいい」という、印象的な言葉をかけます。
安部 それは利家が利長の可能性を認めた瞬間じゃないでしょうか。利長の初陣の頃は、「俺に従ってないと、お前は明日にも討ち死にしてしまうぞ」といった感じで、明日でも生きるか死ぬかという時代ですからね。だけど利長が好きなように、自分の信じた道を進んでも、前田家を託せるというのはいちばんの評価ですよね。
『等伯』を書いていたころから、舞台になっている能登半島や石川県、富山県の人情や人のあり方には、ずっとシンパシーを感じてきましたが、やはり北陸の風土に育てられた気質というものもそこにはあると思います。厳しい自然環境で生きていかなくてはいけないし、利家と利長の時代にも、能登は大地震に見舞われ、とても大きな被害を受けています。それでも誠実に、諦めずに努力を続ける――ずっと粘り強く自分の道を切り拓いていく彼らの姿は、読者の皆さんをきっと勇気づけてくれるはずです。
実は、2025年の元日から「北國新聞」で、本作の続きである「みやびの楯」編の連載がはじまります。地震や大雨の被害にあった能登半島を励ますためにもと打診され、お引き受けすることになりました。「みやびの楯」編では、関ヶ原の戦いに遭遇する利長、そして大坂の陣に遭遇する三代目の利常が主人公です。こちらにも是非、ご注目をいただけたら嬉しいです。
INFORMATION
※安部龍太郎さんの最新長編『銀嶺のかなた』の刊行を記念したサイン会は、12月15日(日)に作品の舞台となった金沢、富山の2か所で開催されます。
提携メディア