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存続の危機でも新たな希望 国際刑事裁判所所長・赤根智子が語る

存続の危機でも新たな希望 国際刑事裁判所所長・赤根智子が語る

赤根 智子

『戦争犯罪と闘う 国際刑事裁判所は屈しない』(文春新書)より 後篇

出典 : #文春オンライン
ジャンル : #ノンフィクション

「何か得意分野を作った方がいい」「環境があなたを育ててくれることもある」。国際裁判所所長・赤根智子が日本に語るエール〉から続く

 ロシアによるウクライナ侵攻とイスラエルによるパレスチナへの非人道的な攻撃。目まぐるしく国際情勢が変化するなか、この二つの戦争に向き合い、プーチンとネタニヤフに逮捕状を出した国際刑事裁判所(ICC)。ニュルンベルク裁判、東京裁判という二つの軍事法廷裁判にルーツをもち、国際平和秩序を守ろうと奮闘してきた裁判所だが、トランプ米大統領による制裁などによって存続の危機に瀕している。そのトップを務める赤根智子さんが、二つの戦争をはじめ国際紛争に対峙する日々、そして来し方を語る。(前後篇の後篇/前篇から読む

◆◆◆

支援を求めて奔走する日々

 2024年11月21日、(国際刑事裁判所の)予審第一部は、イスラエルのネタニヤフ氏、ガラント氏、ハマスのデイフ氏の3名に逮捕状を発付する決定を下しました(デイフ氏はその後死亡が確認され、逮捕状を撤回)。もちろん、裁判官たちが証拠やその他の資料を精査し、法に照らして判断したものに違いないのですが、これがアメリカのさらなる反発を呼ぶことは間違いがなかった。トランプ氏の大統領就任を翌年1月に控え、厳しい制裁の発動がいよいよ現実味を帯びてきました。

 私は、あちこちを駆けずり回って、ICCが危機に直面していることを訴え、支援を求めました。年末に日本を訪れて、外務省の方々や国会議員の方々に協力を要請しました。

赤根智子さん

 12月2日から6日にかけてハーグで開かれた締約国会議では、演説を行って各国にメッセージを送りました。私は、「あたかもテロ組織であるかのように、国連安全保障理事会の常任理事国から制裁をちらつかせられている」と、強い表現で危機的な現状を訴えた。そして、早急に政治的・外交的な努力による支援をしてほしいと各国に要請しました。裁判業務においては中立を旨とし、裁判の中身においてのみ、その意見を明らかにすべき裁判官としては、踏み込んだ発言だったとは思います。しかし、いまはまさに緊急事態であり、ICC所長としては、締約国に具体的な行動を促すことが喫緊の課題だと考えたのです。

 演説には、「どうか月を見てください。月をさし示す指ではなく」という言葉を織り込みました。同僚のアイタラ判事のアイデアです。彼によると、仏教の教えに由来していて、ブルース・リー主演の映画『燃えよドラゴン』に同様のセリフが出てくるらしい。「欧米人はよく知っているから、使うといいよ」と言ってくれたので、入れてみました。逮捕状を出したICCに気を取られるのではなく、出された相手のほうを、いま世界で起きていることのほうを見てほしいという趣旨です。

 参加した締約国からは、「ICCを支持する」との発言が相次ぎました。しかし、すぐに具体的な行動を起こして、アメリカに働きかけるなどした国はほとんどなかった。制裁の発動は、もはや秒読みの段階でした。

トランプ大統領からの制裁 危機に瀕している「法の支配」

 2025年に入ると、一気に事態が動きました。1月3日、アメリカ共和党の議員がICCに対する制裁法案を下院に提出。前年に審議された法案とほぼ同様の内容です。提出から6日後の1月9日、下院で可決。1月20日にはトランプ氏が大統領に就任します。

 1月28日、民主党の議員の多くが採決へ進むことに反対したため、上院での法案の審議はストップしました。しかし、反対に回った民主党の議員たちの間にも、ICCに対する反感は共有されていた。そして2月6日、トランプ氏はICCの職員や関係者への制裁を可能にする大統領令に署名します。

トランプ大統領 Daniel Torok, Public domain, via Wikimedia Commons

 当然のことながら、制裁はICCに暗い影を落としています。スタッフの誰もが、常に制裁のことを意識しながら仕事をしている現状があります。

 日本を含め、締約国の動きが鈍いことは本当に遺憾です。大国が思うがままに行動し、ICCをつぶすようなことを許してしまえば、国際社会における「法の支配」は崩壊してしまう可能性が高い。それだけの危機にあるという認識が、締約国の間できちんと共有されていないと感じます。

 ICCが誕生するまでの過程には、先人たちの多大な苦労がありました。第二次世界大戦終結後、長い時間をかけて機運を高め、法的な環境整備を進め、多くの国による困難な交渉を経て、1998年にようやく設立が合意されたのです。ICCが消滅してしまった場合、もう一度同じような苦労を重ねて、改めて常設の国際的な刑事法廷を設置することができるでしょうか。現在の国際情勢を見れば、それは不可能だと思います。

国際刑事裁判所のルーツの一つである極東国際軍事裁判市ヶ谷法廷大法廷 写真秘録『東京裁判』、講談社、第1刷, Public domain, via Wikimedia Commons

 だからこそ、私たちはどうしても存続していかなくてはならない。締約国には、引き続き支援を呼び掛けていくつもりです。

ICCの活動は止まらない

 たとえ制裁に直面していようと、ICCは自分たちの使命を果たさなければなりません。現在も公判を行い、世界各地で捜査を続けています。

 近年はアジアの事態も増えてきました。2019年11月からは、バングラデシュとミャンマーにおける事態について検察局が捜査を行っています。ミャンマーでは、軍によってロヒンギャと呼ばれるイスラム教徒の少数民族が迫害されてきた疑いがあります。2016年と2017年には、ロヒンギャの武装勢力と軍の衝突があり、推計で70万人以上のロヒンギャの人たちが隣国バングラデシュへの避難を余儀なくされた。ベンソーダ前検察官は、自らの発意でこの事態をめぐる捜査を開始しました。

 2024年11月、カーン検察官はミャンマー軍のミン・アウン・フライン総司令官に対する逮捕状を請求しました。ロヒンギャの人たちを迫害し、避難を余儀なくさせた人道に対する犯罪の容疑によるものです。この人物は、ミャンマーの事実上の最高権力者でもある。検察官が逮捕状を請求した事実を公表したため、既に報道もされています。現在、予審第一部の裁判官が逮捕状を発付するかどうか審理を行っているところです。

ミン・アウン・フライン総司令官 via wikimedia

 2020年にスタートしたアフガニスタンの事態をめぐる捜査も、継続中です。2025年1月23日には、カーン検察官がタリバン最高指導者のハイバトゥラー・アクンザダ氏、タリバン政権で裁判所のトップを務めるアブドゥル・ハキム・ハッカーニ氏に対する逮捕状を請求しました。性別を理由に女性を迫害した人道に対する犯罪の疑いとされている。この逮捕状請求も検察官が公表をしたため、既に報道されています。

フィリピンのドゥテルテ前大統領を逮捕

 2025年3月11日、ICCが発付した逮捕状にもとづいて、フィリピンの警察当局がロドリゴ・ドゥテルテ前大統領を逮捕しました。容疑は、彼が指揮した「麻薬戦争」をめぐる人道に対する犯罪です。

 ドゥテルテ氏は、大統領を務めていた2016年から2022年にかけて、違法薬物の撲滅を掲げ、警官による密売人の超法規的殺害を容認したと報道されています。十分な取り調べが行われないまま多くの人が殺され、無実の人物も含まれていたとみられている。フィリピン政府の集計で死者は6000人を超え、実際は数万人に及ぶとの見方もあります。

公判手続きの開始を秋に控えるフィリピンのドゥテルテ前大統領 via wikimedia

 ICCは、2018年2月にベンソーダ前検察官の発意で捜査を開始しました。フィリピンは2019年3月にローマ規程から脱退しましたが、それ以前に起きた犯罪については管轄権が及ぶと判断されています。フィリピン当局も、この判断に従ってドゥテルテ氏を逮捕したようです。

 逮捕されたドゥテルテ氏は、ハーグのICC本部に移送されました。3月14日には裁判所への出頭に伴う最初の手続が行われています。次回の犯罪事実確認のための公判廷における手続は9月23日に行われる予定です。予審第一部の裁判官が検察側と弁護側の主張を聞いた上で、十分な証拠があると判断すれば、犯罪事実の確認を行い、事件を第一審部に送って、公判が開かれることになります。

 移送時や予審手続の際には、ICC本部前にドゥテルテ氏の支持者たちが集まり、今回の逮捕に抗議の声を上げていました。一方で、逮捕を支持する人たちも集まっていた。フィリピン国内でも、意見の対立が広がっていると報道されています。しかし、私たちはいつも通り、証拠と法にもとづいて判断を下すだけです。ICCを取り巻く政治状況には一切左右されません。

任期満了まで全力で奮闘する

 アメリカによる制裁も含め、どんな政治的な動きがあろうとも、国際法に則って粛々と捜査を行い、公判を続ける。その姿を世界に示すことが大事だと私は思っています。「困難に負けずICCは頑張っているよ」と発信したい気持ちもあるのですが、強調しすぎると政治的なメッセージと受け取られかねない。やはり、裁判所として確かな活動を続けることで、その重要性を理解してもらうのが一番です。

『戦争犯罪と闘う 国際刑事裁判所は屈しない』(文春新書)

 ICCの裁判官や職員たちは、いま本当に大変な状況にあります。制裁の対象がどこまで広がるかわからないため、不安は大きいし、業務量も増えている。そんな中でも、中立性と独立性を守り、法の番人として着実に職務を果たす彼ら・彼女らのことを、私は誇りに思っています。

 私の任期は2027年3月10日までです。この日まで仲間とともに、全力で奮闘していきたい。まさか自分がこれほどの重責を担うことになるとは想像していませんでしたが、与えられた役割を引き受けて、使命を果たすつもりです。

文春新書
戦争犯罪と闘う
国際刑事裁判所は屈しない
赤根智子

定価:1,045円(税込)発売日:2025年06月20日

電子書籍
戦争犯罪と闘う
国際刑事裁判所は屈しない
赤根智子

発売日:2025年06月20日

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