砂原浩太朗さんによる「藩邸差配役日日控」シリーズの第1作の文庫『藩邸差配役日日控』が3月4日に、第2作の単行本『星月夜』が3月24日に発売されました。藩の“なんでも屋”として、お殿様の身辺諸事から襖障子の張替えまで、あらゆる庶務を取り仕切る藩邸差配役の里村(さとむら)五郎兵衛(ごろべえ)が藩内の問題に向き合う人気シリーズです。

 第1作『藩邸差配役日日控』では、五郎兵衛の人柄に惚れたという読者の声が寄せられました。一面的に裁かず、白でも黒でもない「あわい」(間)を受け入れる主人公が魅力の同作から、第1章の冒頭をご紹介します。


(かどわか)

 里村(さとむら)五郎兵衛(ごろべえ)は耳をうたがった。目のまえでは、三和土(たたき)で棒立ちとなった野田(のだ)弥左衛門(やざえもん)が、途方に暮れた面もちで肩を上下させている。五郎兵衛の屋敷まで、いそぎ駆けてきたのだろう。懐紙を当ててはいるが、小太りの頬に拭いきれぬ汗が(にじ)みだしていた。

「……すまん、もう一度いってくれぬか」

 式台から身を乗りだし、顔を近づける。野田も心得た(てい)で、耳もとに口を寄せてきた。ちらりと視線が動いたのは、奥から五郎兵衛のほうへ向かってくる足音に気づいたものらしい。

「若ぎみが行方しれずに」

 うっ、と叫びそうになるのを、かろうじてこらえる。せっかくの非番だが、きのうから風邪ぎみだったので午睡を決めこんでいた。起きたばかりの頭がいちどに覚め、背すじにいやな震えがはしる。それ以上あわてなかったのは、背後で膝をつく人影をはばかったからだった。

「ともあれ、すぐ参る」

 詰所で待っていてくれ、というと、わずかながら安堵したようすで野田が首肯(しゆこう)する。(からだ)つきに似合わぬ軽敏な動きで表へ出ていった。

 振りかえると、娘の七緒(ななお)が不安げにこちらを見上げている。話は聞こえていないはずだが、ただならぬ気配を察したのだろう。五郎兵衛は、つとめて何気ない口調で告げた。

「いささか取りこみごとがあったようでな。今から詰所に行って参る」

「お休みですのに、ご苦労さまでございます」

 案じるようにいって、そっと頭を下げる。そのしぐさが亡き妻によく似ていた。そう思って見ると、小柄な躯つきと、どこか寂しげな顔立ちも母ゆずりかもしれぬ。つと目を()らして、居室のほうへ歩きはじめた。

「今日は帰れぬやもしれん。夕餉(ゆうげ)はふたりで済ませておいてくれ」

 と言いおき屋敷を出るまで、四半刻もかからなかった。ふたりで、といった残りのひとりは、次女の(みお)を指している。いつからか小太刀に熱をあげ、毎日のように道場へ通っているのだった。もう少しおとなしい習いごともしてほしいとは思うが、おさまる気ぶりもない。藩侯一家の御前で型を披露して褒美をいただき、女中たちの指南まで頼まれるほど腕をあげてしまったから、無理もなかった。

 里村の家は代々、神宮寺(じんぐうじ)藩七万石の江戸藩邸で差配役をつとめている。口のわるい者は、陰で何でも屋(・・・・)などといっているようだが、藩邸の管理を中心に殿の身辺から(ふすま)障子の貼り替え、(くりや)のことまで目をくばる(かなめ)のお役だった。それぞれ専従の者もいるが、すべての取りまとめが差配方とその(かしら)である五郎兵衛にまかされている。藩の草創期に家中の往来がしばしば円滑を欠き、刃傷沙汰におよぶことさえあったため、初代藩主のお声がかりで定められたのだった。

 そうした役目ゆえ、大小によらず藩邸内の()め事が持ち込まれるのは常だが、これはとりわけ大というほかない。下手をすれば、二、三人腹を切ることになりかねなかった。

 詰所に足を踏み入れると、副役の野田をはじめ数人の下役が面をうつむけ、せわしなく歩き回っている。なにか用があってそうしているわけではなく、とてものこと、じっとしていられぬというところらしい。五郎兵衛を目にすると、ご差配、と叫んで皆がわらわらと集まってきた。焦燥と困惑に満ちた顔が、いちどきに迫ってくる。五郎兵衛は片方の眉を器用にひそめた。

「どうも暑苦しいの。まずは顛末(てんまつ)を聞かせてもらおうか」

 いって、おのれの座に腰を下ろす。茶の一杯も飲みたいと思ったが、鼻も詰まっているから味は分からぬだろう。それどころでないことも承知していた。

 ご世子(せいし)である亀千代(かめちよ)ぎみがお忍びで上野の山へ出かけたのは、昼まえのことだった。さかりとなった桜を見物に行くためで、ことし十歳の若君が物心ついたころから毎年おこなわれている行事である。大仰にならぬよう、女中もふくめて供は見え隠れに十人、場所もすぐそこといってよいから、気軽な遊山だった。

 ここ本郷の上屋敷を出たときには、まだ人通りも多くはなかったという。が、無縁坂に差しかかったころから、もう花見客とおぼしき人出で道がふさがっている。不忍池(しのばずのいけ)のまわりにいたっては、歩くのに難儀をおぼえるほどのありさまだった。ようやく池の周囲を散策しはじめた矢先、気づけば若君が消えていたのである。

 話し終えた野田が、こんどは首すじに浮かんだ汗を拭いている。五郎兵衛はふとい溜め息をこぼした。

「――消えていたといわれてもの」

 供の者たちは数名がいちど報告に帰ってきただけで、残りはまだあたりを探しているという。悲愴な色を顔じゅうに塗って駆けまわる男女の姿が眼裏(まなうら)をよぎった。

 ともあれ、くだんの場へ向かうに()かず、と腰を上げかけたとき、開け放った窓から差し込む光がとつぜん(さえぎ)られた。面をあげると、黒い小袖に(はかま)をまとった三十がらみの長身が、眼前に立ちはだかっている。むろん見知った顔だった。内心で舌打ちを()らすまえに、相手が抑揚のない声で告げる。

「ご家老がお呼びでございます」

 御用部屋へ入っていくと、大久保(おおくぼ)重右衛門(じゆうえもん)が眠たげな瞳をあげて、おう、といった。五郎兵衛は、袴の裾をさばいて正対する。詰所へ使いに来た波岡(なみおか)喜四郎(きしろう)が、するどい眼差しをあたりへ配りながら、敷居ぎわに控えた。

 江戸家老の大久保は五郎兵衛より十歳ほど上のはずだから、五十なかばということになる。皺の多さにまぎれて表情が分からず、放たれることばは常に短かった。いまも唇をひらいたかと思うと、しゃがれた声でひとことだけ発する。

「……聞いておろうの」

「はっ」

 亀千代ぎみのことに違いない。その程度の推量ができなければ、差配役はつとまらなかった。大久保が満足げにうなずいてみせる。そのまま、ごく平坦な口調でいった。

「むりに見つけずともよいぞ」

 おもわず眉を寄せた。それはいったい、と問い返したかったが、大久保は煙草盆から煙管(きせる)を取りあげ、口もとにはこんでいる。話は終わったということらしかった。

 波岡のほうへ目をやると、やはり用は済んだというふうに首肯してくる。五郎兵衛はおもむろにこうべを下げた。膝を起こして御用部屋をあとにする。

 のんびりしている場合ではないが、詰所にもどる足どりが重くなっていた。縁側から望む桜も、どこかよそよそしく感じられる。寸時もはやく若ぎみをお探しせよというのが、この際然(しか)るべき(めい)のはずだが、大久保が口にしたことはまったくの逆だった。

 たいした距離もないから、じき詰所の障子戸が視界に入ってくる。そのまえに野田がたたずみ、いかにも落ち着かぬという体でこちらをうかがっていた。五郎兵衛の姿をみとめると、小太りの面がさっと明るくなる。

 ――まあよいか。

 ふいに肚を据えた。いずれにせよ、知らん顔ですまされる話ではない。

 ――探すなと言われたわけでもあるまい。

「出立いたすぞ。留守にひとりだけ残し、あとは総出じゃ」

 五郎兵衛が呼びかけると、承知、と応えて野田が詰所に飛びこむ。下役たちを急き立てる声が、一歩すすむごとに近づいてきた。

 上野のお山は、予想をはるかに超える賑わいようだった。不忍池のほとりでは満開になった桜が空へ迫るように咲きほこっている。ひとめぐりして半刻はかからぬ池のまわりも見渡すかぎりの人波で埋まり、身分や年齢にかかわらず、誰もが浮かれた風情でそぞろ歩いていた。

 風が吹くたび枝から離れた花弁が、ひらひらと頭上に舞い落ちる。屋台や露店もところせましと並び、あたりは湧き立つような喧騒につつまれていた。

「これは……無理ですな」

 先月から出仕したばかりの安西(あんざい)主税(ちから)が、ととのった顔立ちをあからさまにげんなりさせて言った。隠居した父親はまじめ一方の男だったが、(せがれ)のほうはいつ見ても、やる気というものが感じられない。

「無理ですむか」

 野田が睨みつけて叱咤(しつた)するが、動じるようすもない。聞こえぬふりのまま、人ごみのなかに消えていった。安西は弁天堂のあたりを探すことになっている。他の者たちも、つぎつぎと持ち場へ向かった。

 五郎兵衛は苦笑を()みこみ、頭上の桜並木を見上げた。桃色の天蓋から洩れた光が、まばゆいばかりに降りそそいでくる。かがやきの強さに、われしらず目をほそめた。

 ――とはいえ、やみくもにお探ししたところで……。

 総出でやっては来たものの、雲をつかむごとき話ではある。にわかには考えがまとまらなかった。

「ご差配――」

 野田が急き立てるように声を高める。そういう当人は、つなぎの役としてこの場へ残ることになっていた。五郎兵衛はうなずき返して歩きだす。若ぎみ付きの者をひとり、ともなっていた。橋崎(はしざき)泰之進(たいのしん)という名で、自分とおなじくらいの齢である。蒼ざめた顔をして、先ほどからひとことも発さぬ。場合によっては腹を切らねばならないのだから、当然というべきかもしれなかった。

 亀千代ぎみの姿を見失ったのは、不忍池の散策をはじめてすぐのことらしい。ふだん屋敷のなかでばかり過ごしているせいか、若君はいつになくはしゃいでいた。あちこち駆け回ろうとして、なだめるのがひと苦労だったという。するうち、とうとう振り切られ、桜並木の向こうに消えた。あわてて皆で探したものの、それきり見つからなかったのである。

「まあ、せめて殿が国もとにおられるときでよかった」

 気を引き立てるようにいってみたが、橋崎は白くなった唇を開こうともしない。仕方なく、岸辺に沿ってそのまま歩をすすめた。

 池の方から濃い緑の匂いがただよってくる。蓮の葉がみっしりと集まり、水面に浮かんでいた。花が咲くのは夏のことだから、何ヶ月もあとになる。そのころには、藩侯もとうに出府しているはずだった。

 むろん、そのときまで隠しおおせるわけもない。せいぜい一両日中に片をつけねば、ひとりやふたりの死人ではすまなくなる。いちばんに責めを負うのは橋崎ら側仕えだが、藩邸差配役たる五郎兵衛自身に累がおよぶこととてあり得た。

 溜め息を呑みくだし、あたりに目をくばりながら、そろそろと足をはこぶ。楽しげな笑声を立てて歩くまわりの人影が、遠い国の住人でもあるかのように感じられた。

 若ぎみが姿を消してから、すでに一刻半ほどが経っている。暮れるには間があるが、日はわずかに西へかたむきはじめていた。橋崎は血の気が失せた頬を震わせている。おのれの掌も汗ばんでくるのが分かった。

「あっ」

 おどろくほど近くで、大きな声があがった。振り向くまえに、池のほとりで二人づれの影が立ち上がる。そのまま、木洩れ日を()いくぐるようにして近づいてきた。

「なんだ、このようなところで」

 場合が場合だけに、つい口が(とが)ってしまう。駆け寄ってきたのは、髪を後ろにまとめて袴をまとった若い女と、お付きの老人だった。

 小太刀の稽古に出かけた澪と、迎えに行ったはずの下男・捨蔵(すてぞう)である。いくぶん時刻も早いからめずらしいことだが、稽古を切りあげて花見に来たのだろう。老人のほうは、息を切らして汗まで浮かべている。そろそろ道場への行き帰りがきつい齢になっているのかもしれなかった。

「――父上は、いかがなされましたので」

 よほどむずかしい顔をしていたらしく、澪が気づかわしげに五郎兵衛の面をうかがってくる。

「少々さがしものでな」

 ことさら何気ない口調でいうと、澪が身を乗りだした。捨蔵が袖を引くのもかまわず、詰め寄るふうに顔を近づけてくる。

「お手伝いいたしまする」

「む――」

 人手はほしいから、つかのま気もちが揺れたものの、

 ――かるがるしく大事を明かすわけにもいかぬ。

 やはり思いとどまった。ふだんなら一顧だにもしないところだが、非常時のうえ風邪気味で、勘が鈍っているのかもしれない。

「……いや、人手は足りておる」

 (はな)(すす)りながら応えていると、娘の背後から人影が駆けてくるのに気づく。

「ご差配っ」

 人ごみを掻き分け飛び込んできたのは、弁天堂に向かったはずの安西主税だった。よく見ると、かなり遅れて野田が重たげに体を揺らしつつ追いかけてくる。

 近くまで来ると、安西は五郎兵衛と向かい合う澪にちらりと目を走らせた。むろん、上役の娘だなどと知るわけもない。親の(さが)というやつで、その視線をさえぎるように澪のまえへ立つと、

「なにごとじゃ」

 心もちいかめしげな声で問うた。するうち、息を切らした野田が追いついてくる。まだ肌寒さの残る日和(ひより)だが、すっかり汗だくになっていた。

「弁天堂にこれが……」

 安西が差しだすものを見て、(うめ)き声がふたつ重なった。五郎兵衛はそのまま前のめりになったが、橋崎の方はかるくよろめき、そばの桜樹に寄りかかってしまう。

 若侍の手には、袱紗(ふくさ)にくるまれた守り刀がひと振り握られていた。(さや)の中央に、銀の象嵌(ぞうがん)でお家の紋が刻まれている。亀千代ぎみの持ち物にまぎれもなかった。

 詰所へ引き上げてきた者たちの顔は、いちように晴れなかった。朱を帯びた光が板張りの床に流れこみ、みなの面に滲んだ焦燥を色濃く照らし出している。

 板の間へ広げられた袱紗の上に、例の守り刀が置かれていた。夕日を浴びて、鞘に塗られた(うるし)がしたたるような輝きを放っている。ずいぶん大切に使っているのだろう、傷ひとつ見当たらなかった。

 安西主税が弁天堂で見つけたものである。裏側の欄干にこの袱紗で縛りつけてあったらしい。

「――よく見つけたものだの」

 五郎兵衛がなかば(あき)れ顔でいうと、

(わらべ)のころから、かくれんぼは得意でございまして」

 誇らしげに呑気(のんき)な笑声を洩らした。堂の裏などは絶好の隠れ場所なのだという。言いつつ横目で澪を追いつづけているから、追い立てるように娘を帰らせた。すぐさま諸方に散った下役たちを呼びあつめ、弁天堂の周囲を念入りに探させたが、結局、刀以外の痕跡はなにひとつ見いだせていない。

 若ぎみは、この守り刀ひとつしかたばさんでいなかったはずである。子どもとはいえ、一家の跡継ぎがみずから丸腰になるわけもない。

 ――なにゆえ、これが弁天堂に。

 首すじに汗が湧き、襟もとから背中へ流れこんでいく。

 亀千代ぎみは、ただいなくなったのではなく、(かどわか)されたのであろう。大胆きわまるというべきだが、下手人がそのことを知らしめるため、若ぎみの持ち物を目につくところへ置いたに違いなかった。

 不忍池を訪れて、弁天堂に来ぬものはいない。当然そこを探さぬはずもなかった。とはいえ、堂の正面に置こうとすれば人目につきすぎるし、不心得な者に持ち去られる恐れがある。裏側の欄干というのは、しごく理にかなっている気がした。まんいち五郎兵衛たちが見過ごしたときは、あらためて、この刀を屋敷に投げ込むというやり口もありうる。

 ――そろそろ、ご家老方へ(はか)らずばならぬか……。

 眉をぐっと寄せ、下役たちに気づかれぬよう吐息をこぼした。思い浮かべたのは、江戸屋敷を取りしきっている三人のことである。家老は大久保だが、留守居役が岩本(いわもと)甚内(じんない)、側用人はまだ若い曾根(そね)大蔵(おおくら)だった。曾根は藩主に随行して、いま国もとへ帰っている。差配役はこの三人に直属するかたちとなっていた。

 むろん大久保と岩本には帰邸そうそう、耳打ちという体で知らせてあるが、正式に書類をあげれば後もどりはできぬ。若ぎみ失踪の件が、藩の記録にはっきり残ってしまうだろう。それは、誰かしら責めを負う者が出ずにはいないということでもあった。

「万事休す、でございましょうか……」

 野田弥左衛門がぼそりとつぶやく。それに合わせるごとく、幾人かの者が心細げに息をついた。

 五郎兵衛は喉まで出かかった舌打ちを呑みこむ。わざわざ口にするなと思ったが、(とが)める気も起きなかった。野田が突き出た腹をしきりにさすっているのは、切腹のことが頭をかすめたからだろう。おのれとて、そのままですむはずはなかった。

「さて――」ふいに安西主税が声を発する。五郎兵衛は、おもむろにそちらへ目を向けた。若侍が腰をあげながらいう。

「そろそろ引き上げても、よろしゅうございましょうか」

 唖然(あぜん)として、野田と顔を見かわした。他の下役たちは、座を変えたり腰をもぞもぞさせたりと落ち着かなくなり、五郎兵衛と安西を交互にうかがっている。

 たしかに常であれば退出の刻限だが、だれが見ても非常のときである。夜半には市中の木戸も閉まるから、やむなく引きあげてはきたものの、帰ろうとする者がいるとは思いもしなかった。橋崎たちも、肩を落として側仕えの詰所へもどっていったが、当然そこに残っているだろう。

「よいわけがあるまい」

 野田が押し殺した声を洩らす。肥えた頬のあたりがぶるぶると揺れていた。いまにもその口から怒声が発せられそうに見える。当の安西はまったく悪気がないらしく、怪訝(けげん)そうに野田のほうを見やっていた。

「まあ、しかし」五郎兵衛は、ことさら力の抜けた声を投げる。皆の目がいっせいにこちらを向くのが分かった。「ここで雁首(がんくび)そろえておっても、詮ないのはたしか」

「そんな」

 野田が咎めるように目を()く。おもわず肩のあたりをすくめそうになったが、そのままつづけた。

「とりあえず、二手(ふたて)にわかれて半分は詰所で待とう。明ければ今いちど探しに出る。残りは帰って寝るなり休むなりせよ。一日を三つに分け、四刻ごとに交代するとしよう」

「なるほど、妙案でござりまするな」

 安西がやけに明るい声でいった。野田がますます顔をしかめたが、とりあわずに下役たちをふたつに振り分ける。ひとつの組が十人ほどとなった。安西は残す方にしたが、その仕組みに納得したのか、帰ってゆく朋輩たちを目にしても不満げな色ひとつ見せていない。

 ひとが半分になると、にわかにおそろしいくらいの静寂が()しかかってくる。桜の咲く時分とはいえ、夜気はまだ充分すぎるほどつめたいものを(はら)んでいた。が、寒々しさがただよっているのは、そのためばかりでもないだろう。行灯(あんどん)の火明かりが揺れる音まで、はっきりと耳の奥に響いてくるようだった。

「……半分も帰してよろしかったのですか」

 野田が不服げなつぶやきをこぼす。五郎兵衛は苦笑まじりに返した。

「寝ていない者が何人おっても、役にはたたぬ」

 あきらめたのか、野田もそれ以上食い下がってはこない。文机のほうへ移って、所在なげに帳面を繰りはじめた。急ぎの仕事があるとは思えぬから、気をまぎらすために違いない。

 ふと目をやると、安西がくだんの守り刀を袖に載せ、しげしげと眺めている。取りまぎれて出したままになっていたが、どこかへ仕舞っておいたほうがいいなと気づいた。立ち上がって、若侍のそばに腰を下ろす。

「どうかしたか」

 声をかけると、安西がぞんがい無邪気な笑みを浮かべて応えた。

「いえ、今のところ、これしか取っかかりがございませぬゆえ、なにか見落としていることはないかと存じまして」

「なるほど」

 おぼえず首肯したが、当の若侍は()めつ(すが)めつの体で、刀の検分に没頭している。刀身をあらためたり、鞘に目を凝らしたりと、上役がそこにいることなど忘れた風だった。

 五郎兵衛は手持ちぶさたとなって、膝先に眼差しを落とす。守り刀を結わえていた袱紗が、板張りの上に残されていた。退屈しのぎに摘まみ上げ、顔のまえに広げてみる。

 何の変哲もない紫の袱紗である。すでにいちど(あらた)めているものの、屋号や持ち主の名まえなどは入っていなかった。しばらくそうして眺めていたが、ややあって畳みはじめる。刀とともに手文庫のなかへでも入れておこうと思った。

 ふいに五郎兵衛の指が止まる。ほとんど畳み終えていた袱紗をあらためて広げ、食い入るように見つめた。

「ご差配――」

 安西主税がいぶかしげな声をあげ、こうべをかしげた。野田もただごとでない気配を感じたらしく、がたりと音をさせて腰を浮かせる。五郎兵衛は応えることも忘れ、噛みつかんばかりにして袱紗に顔を近づけた。

 屋敷の玄関先に立ったときは、さすがに足もとが覚束(おぼつか)なくなっている。明けきらぬ空からこぼれる光が、やけにまぶしく感じられるのは、目がしょぼついているからだろう。つぎの組と交代して帰途に就いたのだが、やはり夜通し起きているのはつらい年齢になっていた。

 五郎兵衛のためにあけておいたらしく、戸はすんなり開いたが、誰かが起きだしている気配はまだない。そのまま上がり(がまち)に座りこみ、ひと息ついた。どこからか(うぐいす)(さえず)りが耳に飛びこんでくる。鳥は早起きだの、と思った。

 背後で廊下の板が鳴った、と思う間に、奥から気ぜわしげな足音が近づいてくる。振り向くと、女にしては背の高い影がひとつ、すこし離れて膝をついた。

「お帰りなされませ」

「……来ておられたのか」

 ひと晩ぶん伸びた髭を隠すように、口もとへ手を伸ばす。

 女は、亡妻の妹で咲乃(さくの)という。三十路(みそじ)も半ばを過ぎているが、ゆえあっていまだ独り身だった。その気安さもあるのか、ときおり里村の屋敷をたずねてくる。娘たちも小さいころからなじみの叔母ゆえ、気がおけないらしかった。

 おそらく昨日もそうして訪れ、五郎兵衛が戻らぬと聞いて、泊ることにしたのだろう。七緒と澪も、さぞ心強かったに違いない。寝衣でなく藤色の小袖をまとっているから、あるいは眠っていないのかもしれなかった。

「造作をかけましたな」

 とだけ告げ、かるく低頭した。めっそうもないことでございます、と応えて咲乃もこうべを下げる。なにがあったのか、などと聞く女ではなかった。

「父上――」

 奥から(まろ)び出るように七緒があらわれ、叔母とならんで腰を下ろす。いつも静かなこの娘にしては、めずらしいことだった。おなじく寝衣姿ではなかったが、わずかに瞼が腫れぼったくなっている。待ちつかれ、うとうとしたところに父が帰ってきたものらしかった。

「とりあえず、ひと眠りするとしよう」

 立ち上がって、ふたりにいった。七緒が両袖をあげたので、腰のものをあずける。そのまま、あたりを見まわすようにしてつぶやいた。

「澪は(やす)んでおるか」

 声をかけてはみたが、部屋のうちから応えはなかった。五郎兵衛は襖に手を伸ばし、そっと引き開ける。

 居室の中ほどに端座した澪が、ゆっくりとこちらを振り向いた。やはり寝衣に着替えてはおらず、床も延べられていない。ふだん快活すぎるほどの娘が、色を失くした面もちで父の顔を見つめていた。その瞳もつねになく虚ろで、ただ透き通ったビードロのように感じられる。

 無言のまま、澪のかたわらに腰を下ろした。娘の眼差しに揺らぎが(きざ)し、少しずつ頬に赤みが戻ってくる。目の端から、かすかに滴のようなものが盛り上がっていた。

「……申し訳ございませぬ」

 ややあって、澪が押し殺した声を洩らす。(まなじり)からこぼれたものは、すばやく拭きとっていた。

 五郎兵衛は吐息をついて、(ふところ)に手をのばす。取りだしたのは、守り刀を包んでいた、くだんの袱紗だった。

「鼻が詰まっておったゆえ、気づくのが遅れたが」ことさらおどけた口ぶりでいう。「格別なる香の匂い、忘れるわけもない」

 香というのは、昨年、澪が藩侯一家の御前で小太刀の技を披露した際、褒美としてくだされたものだった。国もとからそのために取り寄せた逸品と聞くから、他に持っている者はそうそういないはずである。もともと嗅いだこともない下役たちは、袱紗から香が匂ったところで何も疑いはしない。

「――それだけでお分かりになったのでございますか」

 澪が追いすがるように聞いた。五郎兵衛はゆらゆらとかぶりを振る。

「花見のため稽古を切りあげるとはそなたらしゅうもないが、こちらも度をうしなっておったゆえ、深くは考えなんだ。が、ふたつ不審がそろわば、見過ごすことはできぬ」

「ご慧眼(けいがん)、恐れ入りましてござりまする」

 澪がうなだれて膝に目を落とした。おぼえず苦笑がこぼれる。

「誉められてもあまり嬉しゅうないの……ともあれ、わけを聞かせてもらおうか」

 はい、と応えた声が、この娘とも思えぬほどか細かった。喉のあたりがわずかに揺れている。

 女中たちへ小太刀を教えることになって以来、澪は時おり若ぎみともことばを交わすようになっていた。先月奥へ伺候(しこう)した際こっそりと呼ばれ、じきじき耳打ちされたのだという。例年の行事である花見が来月に迫っている。ついては、少しだけ皆と離れ、思うさま市中を散策してみたいから、手を貸してくれまいか、と。

 むろん、それでは皆が困りまする、とお(いさ)めしたが、

「これから家を継ぎ、妻など迎えては、ますます気儘(きまま)もならぬ。子どものいたずらですむうちに、な」

 こわいほどの真顔で詰め寄られる。子どものいたずらですむうちに、と当の子どもがいうのは妙に力のある言い分で、無下(むげ)にことわることもできなかった。

 澪が頼まれたのは、ただ一つのことである。こうした行事は毎年呆れるくらい同じように繰りかえされるから、不忍池に到着する頃合いも予想がついていた。行方をくらますとしたらその直後だから、(とき)をあわせて守り刀をひと振り、弁天堂の裏に据えてきてくれという。守り刀は二振りあって、ふだん仕舞ってある方を渡されたのである。刀がやけにきれいだった理由はそれで分かったが、

「いったい、何のために」

 首をかしげると、

「皆は刀の近くを探すであろうから、そのうちに、べつな方へ行くと仰せられて」

 唇を震わせながら発する。五郎兵衛は、ことばをうしなった。

 澪は道場からの帰り道、花見に行くと称して不忍池へ足をはこんだが、その途中、供の捨蔵をまいて弁天堂に向かった。亀千代ぎみの言いつけどおり、守り刀を置いて戻ったころには、探しつかれた老爺(ろうや)がすっかり息をきらして汗だくになっていたという。若ぎみ捜索にくわわろうとしたのは、成りゆきが気にかかったからに他ならない。

「が、そうなると……」

 五郎兵衛は顎に手を当て、考えをめぐらす。すぐ戻ると若ぎみはいっていたそうだが、一昼夜を経た今でもお帰りになっていない。あるいはどこかで異変が起こったのかもしれなかった。澪が蒼ざめるのも当然だろう。

 ――結局は振りだしか……。

 曙光が見えたように思ったのはつかのまで、なにも好転していない。刻が経った分だけ、わるくなっているというべきだった。

「お(ゆる)しくださいとは申しませぬ」

 澪が切れ長の目を上げた。白目のところは充血しているが、瞳の奥がきらきらと光っている。母親に似てきたな、と思った。「このまま若ぎみにもしものことあれば、わたくしも生きてはおらぬ覚悟でございます」

「――生き死にのことなど簡単にいうてはならぬ」ひとことずつ、ことばを押しだす。「母の心もちを思うてみよ」

 娘がぐっと喉を詰まらせる。

「母上の……」

 五郎兵衛の亡妻は千代(ちよ)という。澪の出生と入れ替わるようにして世を去ったのだった。おさない頃から、亡き母に(もろ)うたいのちと教えてある。

 うつむいた澪の背が小刻みに震えている。五郎兵衛は娘の肩に手を添え、語りかけた。

「どのみち、若ぎみになにかあれば、そなたの身ひとつで(あがな)えるわけもない」

「………」

 唇を噛みしめた澪を見つめ、ふっと頬をゆるめてみせた。戸惑いの色を浮かべた娘に、ゆっくりと告げる。

「まずは、やれるところまで足掻(あが)いてみるわえ」