また、他の島嶼防衛戦闘では、水際で損害を受けて、補給も無く、兵力を失った日本軍は、いわゆるバンザイ突撃をして玉砕するというパターンが少なくなかった。栗林には、この考えも無かった。潔く玉砕することよりも、一日も長く米軍を硫黄島に釘付けとし、最後まで米軍に損害を与え続けることを目標とした。この周到な準備と決意が、日米戦で希に見る激烈な戦いを現出したのである。結果、米軍は二万八千名を超える死傷者を出したが、これは日本軍の死傷者数を超えていたのである。この栗林の戦闘指揮には、米軍も感嘆するほどだった。
著者は、この硫黄島の戦いを、指揮官であった栗林忠道を中心として纏め、デビュー作ともいえる『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』を書き上げた。以後も栗林と、更に硫黄島の戦いにかかわる軍人を中心に取材を進めた。硫黄島には、バロン西として、ロサンゼルスオリンピック馬術出場で金メダルを取った、有名な西竹一が居た。西は硫黄島では戦車第26連隊指揮官として戦っているが、戦車の機能である機動力を放棄して、戦車を埋めて砲塔だけを地上に出して、鉄のトーチカとなった。本来の機動力を失った戦車を見て、西は不本意であったことと思う。
また、若くして硫黄島に散った青年士官たちの最期を、多くの関係者からの証言をあつめながら、硫黄島の戦いを再構築している。
しかし、話は、感動的なエピソードばかりではない。激戦のさなか、硫黄島で起きた、捕虜となった米軍パイロットの処刑と、宴会でその肉を食べるという、常軌を逸した事件の詳細にも触れている。読み進む事が苦しいほどの戦争の狂気である。
更に、今回、海軍部隊の指揮官として戦死した、市丸利之助少将についての記述が追加された。硫黄島の戦いは、栗林中将で代表されるように、主に陸軍の守備部隊の戦いが知られているが、実のところ七千七百名もの海軍将兵が闘っている。市丸は歌人でもある。いくつもの歌が残されているが、どれも静かな諦観を感じる。硫黄島着任直前の作といわれている、
艦砲の的ともならん爆撃の的ともならん歌も詠むべし
は、生死の竿頭にあっても歌を詠もうという、壮絶な静けさがある。
しかし、市丸の名前を後世に残したものといえば、最後の突撃の前に書き残した、「ルーズベルトに与ふる書」であろう。市丸は、アメリカ大統領宛の書簡を草し、英訳を付して部下に託した。部下は戦死したが、米軍がこれを回収し、終戦直前に、米国内の新聞で紹介された。内容は、やむを得ず対米戦争に至った日本の立場を述べ、西欧諸国の植民地主義を批難し、最後に、弱肉強食の世界に幸福な日は無いとしたものであった。この文章が、戦時中のアメリカ人にどのように受け取られたかは明らかではないが、当時の軍人の潜在的な心情を表したものと理解して大きな間違いは無いだろう。
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