本書の著者・吉沢久子氏は、一九一八(大正七)年生まれ。これまで六十年近くにわたって、家事や生活全般について、執筆や講演活動、テレビ・ラジオ出演などを通して提言を行ってきた人である。肩書きは「生活評論家」だが、大所高所に立ってものごとを論評するのではなく、あくまでも生活者の立場から、心ゆたかな暮らしとは何かについて思索し、わかりやすい言葉で発信してきた。
近年は、老年の生き方、暮らし方についての著作が広く読まれ、版を重ねているが、長い年月にわたる氏の活動に通底しているものは、日々のいとなみの細部を見つめるゆるぎない眼差しであり、毎日をていねいに暮らすことがそのままひとつの生き方につながっていく、生活哲学とでもいうべきものだ。
人間が生きる、その足もとを見つめる目をもって、真摯に学び、社会に踏み出していく――そうした姿勢の大切さを、吉沢氏の著書や活動から、ごく自然なかたちで教えられてきた人は多いだろう。私もそのうちの一人である。
本書は、太平洋戦争末期の一九四四(昭和十九)年十一月から、一九四五(同二十)年八月までの吉沢氏の日記の抄録に、本人による説明文を付したものである。戦時下の日記からは、食料をはじめあらゆる物資が不足する中で、工夫を重ね、前向きに生きていこうとする若い女性の姿が見てとれる。庭からさがしてきたハコベを鳥の餌ほどにこまかくきざみ、朝食のおかゆに散らして「きれいだ」と思うくだり(三月四日)や、数本のひとりしずかをコップに入れて食卓に飾る場面(四月十八日)などからは、空襲におびやかされる不安な毎日を、こうしたささやかな喜びによって何とか支えていたことがわかる。
読んでいて、同じく戦時下の東京で二十代の女性によって詠まれた、こんな歌を思い出した。
配給の品々とともに求めたる矢車草も家計簿にしるす 宮英子
宮英子氏は北原白秋門下の歌人で、吉沢氏より一歳上にあたる一九一七(大正六)年生まれ。中国大陸の山西省から復員してきた、同じく白秋門下の歌人である宮柊二氏と、昭和十九年に結婚した。これはその年に詠まれた一首である。
矢車草を買い求め、家計簿に記す。平時ならば何でもないことだが、明日をも知れぬ戦時下のことである。吉沢氏の日記からもわかるように、当時の東京では、「明日をも知れぬ」という言葉は修辞ではなく、リアルな現実だった。いつ焼夷弾で命を落とすか、そうでなくても、いつ焼け出されて住むところがなくなるかわからなかったのである。そんな状況下にあって、ささやかな日常をいとおしんで暮らそうとする若い主婦の気持ちが、配給、矢車草、家計簿という具体的なものを通して見えてくる。
この歌は、戦後になって当時の気持ちを思いだして詠まれたものではなく、戦時下、まさにリアルタイムで詠まれたものである。そこに文学的な価値とはまた別の、記録としての価値がある。
当時の日本が、敗戦という大きな歴史の転換点の直前であったことがわかっている時点に立てば、作者にとっても、矢車草を買ったことなど取るに足りないことに思えたかもしれない。だが、戦争のまっただ中にあっては、そこには切実な思いがあったはずだ。歌を通して伝わってくるその切実さを通して、のちの時代の私たちは、戦時下を生きるということのリアリティに、一瞬だがふれることができる。遠いと思っていた時代が地続きになるのである。