そんな先生の眼で見た銀座の喫茶店も、私と同じようにほっとしているに違いない。この本の中に出てくるいくつかは、そうとは知らずに、私も行ったことのある店だ。
不二家は今から四十年も昔に、はじめてのデートでボーイフレンドと入った喫茶店。カワイ子ぶって頼んだクリームソーダの中のアイスクリームが、途切れがちな会話とともにどんどん溶けだし、弾んだ心がしぼむのと一緒に濁っていくグラスを気にしていたあの店が、その昔、ミュージックサロンも持っていたなんて! ペコちゃんのモデルとなった美しい銀髪の藤井の奥様が、銀座くらま会ですばらしい唄をご披露なさっていたのも、なにかのご縁かもしれない。
資生堂パーラーも、女優モードで銀ブラ中にお腹がすいたときに、一人でも入れる数少ない店だ。銀座らしく“上等”な感じ。マダムを気取って「ミートクロケット」をいただく、普段の私なら、「コロッケを食べる」なんだけれどネ。先生のおっしゃるように“資生堂パーラーの客”としての色を纏って、銀座に自分の団欒の場所を見つけたのかも。
洋菓子舗ウエストも、ベートーベンの胸像がもとをたどれば伊藤博文の欧州みやげだったり、壁の絵が、まだ無名だった林武が自ら持ち込んで買ってもらったものだったなんて知る由もなく、いつ行ってもちょっと窮屈な空間にきっちりお客が入り、そのノスタルジックな雰囲気がすでに映画のシーンのようだと思ってはいたけれど、自分と歴史上の人物とが時空を超えてつながったような気になって、銀座の中にタイムマシンを見つけたような楽しい気持ちになってくる。さすがに銀座はそんじょそこらの街とちがって、そこここがワンダーランドだ。
そうかと思うと「はち巻岡田」に行くときに、こんな露地に野の花が……、と不思議に思っていた謎が解けた。コインパーキングが十分六百円、一時間三千六百円の銀座に、ずいぶんと贅沢なしもたやだこと、と思っていたのが「茶房 野の花」だったなんて、この本を読まなかったら、ずっと気づかなかったかもしれない。先生はその露地を「野花の底知れぬ神秘がそこはかとなくあしらわれ」と記しておられるが、風を見る眼のない私などには、そこと言われなければ見つけられない空間であり、“美”であった。でも、この本で知ったからには必ず訪ねてみたい店になった。そして「野山のごちそう」を注文し、焼きねぎとむかごで、キュッと司牡丹をいただいてみよう。この本にはそういう楽しみがいっぱいちりばめられている。
行ったことのある店もない店も、知らなかった歴史や想いや人物の往来があって、扉を開けたらそこは時空を超えた応接間になるのだ。その空間を通じて、ジョン・レノンとも、林芙美子とも、伊藤博文とも会話ができる。かたわらに、風を見る眼を持った、すてきな案内人がいてくれるのだから。
実は私にはもう一つ、先生との想い出がある。一番になれない女である私に、あのころ先生は手袋をプレゼントしてくださった。もう忘れていらっしゃるだろうけれど、グレーのジャージーと黒のスエードのコンビのすてきな手袋で、やわらかくて暖かくて、先生からそっと手を握ってもらったような気がしたものだ。暗闇で立ちすくむ私に、二番手だっていいよ、完全じゃなくたっていいんだよ、太陽が動けば陰が日向になることもあるよ、と勇気づけてくださったと、勝手に解釈し、勝手に心ぬくぬくとし、立派なオバサンになり、未だに独身で女優をやっている。“八十過ぎたらみな名優”という言葉を信じて、これからも女優として長生きしたいと思う今日このごろ。
あれから三十年。きみまろ様なら「シミはブローチ、シワはデザイン」と笑いとばしてくれるだろうけれど、私としてはそうはいかない。憧れの人と再会できるなら、精一杯おめかしをして、“二番の人”の仕上がりも、捨てたもんではないってところを見せなくちゃ! 大人の達人たる村松先生に、「私、二番の人の味方です……ちょっと老けてても」と言っていただけるよう精進しながら、お目もじかなう日を楽しみにしている私であります。その日がそう遠くなくやってきますように――。
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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