「マドンナ」というと、アメリカの女性歌手で、セックス・シンボルともいわれたマドンナさんや、土井たか子氏が党首だった時の参議院選挙(一九八九年・平成元年・七月)で、与野党逆転の社会党を大勝に導いた「マドンナ旋風」を想起される方もいるかもしれない。土井さんのことは本書でも俎上にのせるが、「マドンナ」とは本来の意味は「聖母マリア」である。
本書でも、文字通り、そうした意味での「マドンナ」とも呼ぶべき女性が登場する。
また、いい意味で「男まさり」の女傑とも呼ぶべき「マドンナ」にも触れている。「猛女」ともいうべき「マドンナ」も出てくる。前著との関連で、「女性政治家」や「政治家夫人」にも言及するが、さまざまな分野で活躍し、私をいろいろと導いてくれた「年上の女性」や、また論敵ともいうべき「フェミニスト」や「進歩的な女性論客」なども登場してくる。
中には故人もいるが、こうした何十人ものマドンナ――淑女・美女・猛女・女傑が、さまざまな意味で私を厳しく鍛えてくれたのだ。あらためて感謝申し上げたい。
言うまでもなく、人間の半分は女性である。
毛沢東は「婦女能頂半辺天」(女性が天の半分を支えている)とよく語っていたという。共産主義者としての彼の統治には文革など、間違いが多々あったが、この言葉には嘘はない。これから先の日本の将来も、安倍晋三首相も力説しているように、天の半分を支えている女性の活躍なくしてありえないだろう。
とはいえ、毛沢東といえば、その奥さんの江青を忘れてはならないが、彼女ら「四人組」が猛威をふるったあと失脚した時、中国では「雌鳥(めんどり)歌えば家滅ぶ」といわれたものだ。
雌鳥が雄鳥(おんどり)に先んじて時を告げるのは不吉な兆しだということで、妻が夫を出し抜いて権勢をふるうような家はうまくゆかず、やがて滅びるという中国古来から伝わる譬えだ。だが、それもケースバイケースであろう。下手な男より、女性がはるかにしっかりしている例は幾らでもある。日本の首相や会社の社長に女性がなっても何の問題もあるまい。
私には娘はおらず、男ばかり三人生まれた。孫には女性もいる。
この世代がちゃんとやっていける日本を維持しつづけるためにも、「老兵」の忌憚(きたん)なき思い出話も役に立つのではないかと考え、重い腰をあげて、「ラストメッセージ」「最後の告白」をまとめることにした。
二〇一五年(平成二十七年) 六月
(「序言」より)
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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