『三国志』が原点だった。 “心の師”として敬愛してきた作家の住む浜名湖畔。 異色の初顔合わせは魅せられた中国史同様、刺激的なものとなった――
吉川 今日は、かねてからの念願が叶って、ほんとうに感激しています。ずっと宮城谷さんにはお会いしたいとおもっていました。僕自身、人生の転機に宮城谷さんの作品に出合い、この機会に今後の自分を考えることができるのでは、とわくわくしています。
早速ですが、仕事部屋、書庫と拝見させていただいて、驚嘆しました。現在進行中の作品ごとに仕事部屋があり、書庫はまるで図書館みたいで……。
宮城谷 仕事部屋で、私の執筆する席に坐ったのは、あなたがはじめてですね。
吉川 えっ!
宮城谷 今後はほかの誰にも坐らせないようにしますよ(笑)。
吉川 ……感激です。それにしても、机の廻りは、ほんとうに丁寧に資料が整理されていて、しかもよくみると、該当する時代の縦軸横軸と、ご自身でノートをおつくりになっていらっしゃる。さらに、きれいに造本までなされているんですね。
宮城谷 やはり資料を読むだけではまとまらないのですね。吉川さんもご存知のように、中国古代史、特に春秋戦国時代などは、国も君子も多くて、資料によって年号も不確定ですから。
吉川 僕なんか、秦の物語を読んでいるときに、あれ、斉はどうなっていたっけ、と別の本を引っ張り出したり、歴史事典はもちろん、さまざまな時代の地図も置いて眺めていますから、部屋はもう大変なことになっています。そのことを、仕事部屋で申し上げたら、「自分でノートをつくったらいいんですよ」と、まさに一刀両断(笑)。
宮城谷 いや、つくると楽しいんですよ。メモでは物足りなくなるとおもいます。そうやって、自分の中の混乱が収まると、また他の細かいところとか、もうひとつ、先のことがみえるようになるのです。整理をしている最中は大変ですが、その整理が終わらないと、“人間”がみえてこない。さきほどあなたが坐っていた部屋は、現在「オール讀物」で連載中の『戦国名臣列伝』の部屋なのですが、当初は資料がもっと堆く積んであったのです。それが次第に低くなりまして、あれくらいになりますと、やっと気楽に執筆にむかえるのです。
ところで、吉川さんが、そもそも中国ものを読みはじめたきっかけとは何だったのですか?
吉川 僕は、二十年前に、学業を途中でやめて歌の世界に入ったものですから、最初は情報収集、というか、歌詞を書く際のボキャブラリー不足を痛感して、とにかく文字に慣れよう、と読書したんです。そのうちに、吉川英治さんの『宮本武蔵』とか、「侍スピリット」に憧れるようになりました。侍は斬らなければならない、生産でなく消耗に一生をかけるというのは、カッコいいな、と。
しかし、六、七年前に、独立して会社を起こさざるを得ない状況になったとき、「宮本武蔵」というわけにはいかなくなったんです。剣豪たちも、実は剣の腕だけで志を貫いたわけではない。彼らが剣に触れていない時間に、いかに人生と闘っていたのかということが気になりはじめたんです。当初は、日本のものを読んでいたのですが、どうしてもその根っこに中国ものがある。ということで、『三国志』に行き当たったんです。
宮城谷 入り口は、明代に物語としてまとめられた『三国志演義』でしょう? 私の原点もそうでした。
吉川 はい。『三国志演義』をベースにした吉川英治さんのものは高校時代に読んでいましたが、その頃は特に実感はなかったんです。しかし、「侍」だけで立ち行かなくなってみて、再び『三国志』に眼が向きました。北方謙三さん、伴野朗さん、安能勉さん……、羅貫中の『三国志演義』はもちろん、韓国版のもの、正史『三国志』まで、二十種類くらいは読んだとおもいます。そうすると、『三国志』だけの時代ではおさまりがつかなくなり、もっと前の時代が読みたくなった。そこで、先生の著作に行き当たったというわけです。そして今、待望の宮城谷版『三国志』の三巻の刊行、また新たな時空の旅に心ときめかせている次第です。
日本の歴史小説の誕生
吉川 僕は、宮城谷さんのことを、あちこちで「心の師」と勝手に吹聴させていただいております(笑)。何でこんなに繰り返し繰り返し読むのかなあ、と考えると、中国古代の人間の豊かさが感じられるからなんです。そして、そこで男――自分の美学や志を全うしようとしつつも、世の現実との軋轢に苛まれている――が吐く科白が、一々絶句してしまうくらい素敵なんです。一例を挙げますと、『太公望』の「配下の数がふえればふえるほど、上に立つ者は人から遠ざかってゆく。いまのわたしはそうなりたくない。それゆえ、わたしに仕えるのではなく、協力して欲しい」――。ふっと、自分の中を男のロマンが吹きすぎていく気が、僕はするんです。
宮城谷さんの著作と、孫子の「兵法」は、僕のバイブルです。『孫子』も日本の戦記ものを読んでいくと、「風林火山」はじめ、どうしても突き当たったんですね。共通するのは、“人間”ということで、人心掌握術というか、人間の使い方のおもしろさというか、そこに惹かれてしまうんです。
宮城谷 そういえば、あるところで吉川さんは「知る者は言わず、言う者は知らず」という荘子の言葉がお好きだとおっしゃっていたでしょう。
吉川 お恥ずかしい(笑)。
宮城谷 それは私も書き留めたなあ、と昔のノートを捜したらでてきましたよ(と、ノートを取り出す)。
吉川 ほんとうですね。その後の「しかれども世は豈にこれを識らんや」と続きも……。
宮城谷 特に何かに利用しようとおもったわけではないですけど、自分で書いたほうが残りますよ。その意味でも、ノートを薦めます(笑)。話をうかがっていて、とても嬉しくおもうのは、言葉を吉川さんが自分の中に潜り込ませた上で話しておられることです。たとえば、孫子がこういいましたという引用ではなく、自分の中を通過させて話されている言葉だというのがよくわかります。私の立場からしましても、そういう言葉でなければ人を打たないんですね。
ひとりでやっているときには通用した哲学が、自分だけではなく人を活かさなければならない立場では通用しなくなる。もちろん、大企業人の伝記にも興味深いものもあります。しかし、何か見本になる哲学書といえるものを、あなたが日本よりも中国に捜されたというのは正解かもしれません。
そして、吉川さんが通ってこられた道というのは、実は文学上の話でもあるのです。『宮本武蔵』はじめ、かなり最近まで日本の時代小説は「剣豪小説」でした。ある意味でいいますと、ひとりで切り開いていけばよかった。個に対する信頼度が非常に強くて、企業でもホンダなら本田宗一郎、松下なら松下幸之助個人を崇拝していればすんだのですね。しかし、そういうカリスマ性だけでは対処できない複雑さを時代がもつようになりますと、組織論がどうしても必要となってきます。そのときに、司馬遼太郎という作家が登場してきた、と私はおもうのです。
司馬遼太郎氏も当初は、『燃えよ剣』の土方歳三のように、個を書こうとしたようにみえます。しかしあそこには、新撰組という組織論が明らかに意図されています。組織自体が生きものであり、組織が個に勝る。さらにいえば、時代も生きものであり、個人は自分の理屈と哲学で生きているのではなく、時代状況に束縛されているのだということを、司馬遼太郎氏は提示した。その時点で、日本に時代小説でなく、はじめて歴史小説が生まれたと私はおもっています。
ところが、司馬さんも最初の頃は売れなくて本当に苦労したと、かつての担当編集者から聞いたことがあります。
吉川 司馬さんが現れるまで、時代小説はエンターテインメントの要素が強くて、ひとりのヒーローがいればあとは、というのはわかりますが、たとえば織田信長にしても、ひとりでやっていたわけではないのですから……。
宮城谷 やはり、日本だけで生きているというような錯覚があったのでしょうね。それが次第に、経済成長で国際社会の枠組みにくみこまれて、外国――アメリカだけではなく、ヨーロッパ、アジアを視野に入れるようになり、それぞれつきあい方も、宗教も慣習も食事も違うということを考えざるをえなくなった。そういう縮図みたいなものが、意識しないうちに、小説世界でもでてくるのですね。そうして、司馬さんが受け入れられていく素地ができあがっていったということでしょう。
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