宮城谷昌光・聖枝夫妻とは日本各地あちこちと一緒に旅行させていただいた。
下呂温泉から始まる何年かに渉る旅行であった。私と担当の編集者二人、あるいは三人が同行した。といっても、歴史小説の取材行ではなく、純粋に楽しむための旅であった。
だが、漫然と行く先を決めたのではなく、目的ははっきりとしていた。まず第一は、古戦場と城跡を訪ねることにあった。尾張、三河周辺の地域では岡崎、吉良、桶狭間、長篠、清洲、小谷、新城、白子浜など信長、秀吉、家康、あるいは菅沼家ゆかりの城や寺や古戦場を回った。賤ヶ岳ではひょっとしたら私の祖先の一人かもしれない毛受(めんじゅ)勝助の墓碑にも詣でた。
宮城谷さんご夫妻との旅は、またいい宿を探す旅でもあった。温泉宿としては、下呂、湯谷、由布院、白骨、箱根芦ノ湖、松山道後。ホテルは蒲郡プリンス、マキノプリンス、中禅寺金谷、野尻湖プリンス、上高地帝国、名古屋マリオットアソシア、志摩観光。日本旅館の唐津洋々閣、京都柊家、俵屋。湯布院の亀の井別荘、玉の湯。
また焼き物の里にもたびたび立ち寄った。信楽、常滑、有田、伊万里、小鹿田(おんた)。
他にも九州日田、中国地方長門、萩、下関。京都、宇治、神戸、長浜、熱海、伊豆の国。いつどことどこを回って、泊まったのはどの土地かということは記憶が前後してしまっているから、順不同で述べた。
旅の夜は、宮城谷さんの独壇場だった。宿につくとすぐに宮城谷さんの部屋に皆で集まり、氏の話を伺うのである。風呂に入ることも忘れて、気がつくと夕食の時間になっている。深更から朝方まで仕事をする氏は、夜が更けてくるとさらに調子が出てくる。
何夜も氏から小説についての方法論や歴史の細部の意味、音楽の精妙さなど普段文章では読んだことのない内容の話を聞くことができた。まことに贅沢な時間であった。
録音しておかなかったことがつくづく残念だが、多分、私の血脈のなかにそのうちの何分の一かは溶け込んでいて、自分でも気がつかないうちにたとえば小説の書き方を論じるときなどに自然と湧いて出てきているに相違ない。
宮城谷さんから伺ったそうしたおびただしい言葉のなかで、今も折に触れて蘇るフレーズがある。
「めんじょうさん、音楽って小説じゃないのかな」
この言葉は、旅の途中、昼間の立ち話でいきなり出てきた。初めてそれを聞いたときには、とっさに返す言葉が浮かばなかった。正直音楽と小説は別物だという気がそのときはしたのだ。音楽的な小説という言い方があるように、音楽のある何かの要素を思わせる作品があることは事実であるが、小説全体の概念が音楽のそれと通じるということはまったく思いのほかだった。私の困惑に気がついて、氏はすぐに言葉をつないだ。
「やはり違うかな」
若き日より、宮城谷さんが常に「方法」に思いを致していたことが、本書『他者が他者であること』を読めば分かる。小説においても、写真においても、宮城谷氏は、徹底的に方法を探る人である。あるいは、まず「方法」の研究から入る人と言い換えてもいい。
作家生活二十五年の記念に二〇一五年二月、自費出版で刊行された『うみの歳月』のあとがきでも、その苦闘の履歴が語られている。