宮城谷さんの集中力は凄い。興味のあるものに対する徹底的な集中力。氏は、大学では英文科に籍を置いていたのに、英語の小説が好きではなく、フランスの文学に強い興味を抱き、フランス語を独学で学び始めた。ラジオのフランス語講座を聞いて勉強をしたのだ。一度、そのころの勉強の跡が一目で分かる大学ノートを見せてもらったことがあった。生半可な勉強ではないことがびっしりと書き込まれた字面から伝わってきたものだ。
小説の、カメラの、あるいは競馬の「方法」を探求するときの氏の姿勢は、等しく徹底的である。
さて、先ほど述べた「音楽と小説」についてだが、私もあるとき音楽を聴いているときに突然閃いたのである。音楽は小説であると。長いこと、宮城谷さんの謎掛けのような問いが頭の片隅に住みついていたのに違いない。そのとき聴いていた曲も作曲者も忘れてしまったが、直感的に「音楽は小説だ」と感じたのである。
村上春樹氏と小澤征爾氏との対話篇『小澤征爾さんと、音楽について話をする』という著作で、村上氏が「音楽と同じで、小説もリズムなんです」と語っているが、宮城谷さんも当然、リズムのことは考えのなかにあったことだろう。だが、宮城谷さんは、リズムだけではなく、メロディーもテンポも、音色も含めて、つまりすべての音楽的な要素を合体した総体的な意味で音楽と小説は同じだと言いたかったのではないだろうか。
宮城谷さんの好きな音楽家、それを指揮者に限ると既に故人ではあるが、生前はCDなどのコピー文化を拒否していたセルジュ・チェリビダッケという名前を挙げることができる。実は私はこの人の演奏は苦手なのだが、宮城谷さんが評価する理由は非常によくわかるのである。
チェリビダッケの演奏はまず、テンポが異常に遅い。楽譜に記された音符の一つ一つが、演奏を待ちきれずに落下してしまうのではないかと思うほど遅い。もちろん、この遅さには理由があるのだろう。
恐らく作品のハーモニー(和声)構造を際立たせて提示したいという意図があったのだ。私などはそこに理屈っぽさを感じてしまうのだが、宮城谷さんは小説家としての別の耳でチェリビダッケの演奏に身につまされるところがあったのではないだろうか。
本作のなかに「藤沢作品の音楽性」という章があるが、ここでも小説と音楽の関係について注目すべき発言がある。
〈音符そのものに音楽があるわけではない。音符から音符へ移る、いわば音符がないところに音楽がある。聴衆は音楽を聴覚で聴いているのではなく意識で聴いている。〉
つまり、小説が音楽の相似形であるとすると、読者は文字の一つ一つを読んでいるのではなくて、字間、あるいは行間に小説は存在し、読者は意識で読んでいるということになる。
では音楽を突き詰めれば小説が書けるのかと問われれば、やはり否と言わざるを得ないだろう。どうして写真でなくてはならないか、という苦悩を経る必要があるように、どうして小説でなければならないのか、という根本的な問いかけをしなければならないからだ。
歴史小説を初めて書こうとした宮城谷さんの格闘は本書の表題作「他者が他者であること」がよく教えてくれる。それは音楽と小説の関係を考察するのとは、また別の角度からの本質論であるが、「方法」を探し求める旅の果てにしか出てこない言葉が胸を打つのである。
小説はほんとうに難しい。
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