
大学生時代に小説を書き始めた氏は、本エッセイ集の表題作である「他者が他者であること」で語っているようにまだ歴史小説に手を染めてはいなかった。現代小説を懊悩しながら書いていたころのことである。
〈小説が虚構であるとわかっていながら、私は妄(うそ)のないものを書きたかった。そこで、リアリズムとは何であるのか、と考えはじめ、フランスの小説家の創作原理を借りて、新しい形の小説を書こうとした。〉
師であった立原正秋氏に叱られても、宮城谷さんの文体追求の手は休まなかった。そのころ、ヌーボーロマン系として紹介されていた作家たちのなかから氏はフィリップ・ソレルスを選び、その方法論から生まれたのが習作の「無限花序」である。この作品は、氏の歴史小説の読者にはあまりの異質感に驚かれるかもしれないが、この地点を通過することによって、氏は「別世界にはいり、なんでも書けるような気になった」のである。中国の歴史を独学で勉強したのは、それからまた何年もあとのことになる。そして、そこからの道筋は読者がご存知の通りである。
本書は四章に分かれていて、具体的な体験話である第三章「カメラ」は、一番読みやすいように思われるだろうし、歴史や文学を語った他の章とは色合いが違って見える。しかし、表現活動の対象は違っていながら、ここでも必死に「方法」を模索する宮城谷氏の姿が活写されている。その「方法」は、小説の方法と当然通じてくる。従って、全体を読んだ後に、読者は「カメラ」の章が、本書の追求する共通のテーマのなかにすっぽりと収まっていることに気がつくことだろう。
具体的に、宮城谷さんが、「方法」について語っている部分でとりわけ印象の深い個所を引いてみよう。
〈すべての創作活動は、作者の「生」を表現するものでなければならない。そしてつぎに考えることは、それを表現する手段が、どうして写真でなければならないか、ということだ。そのことに思い悩みながらファインダーをのぞくのは苦痛だが、しかし、その苦悩を体験したほうが、どんな多くのテクニックをおぼえるより、良質な写真を撮れる近道であることは、まちがいない。〉
ここで重要なことは、テクニックという「各論」より、写真に立ち向かう自分のテーマすなわち「総論」を重要視していることだ。いや、もちろんテクニックが大事であることは、「カメラ」の章で語られるのは、ほとんどがテクニック上の苦心談であることで分かるだろう。だが、テクニックだけでは良質な写真は撮れないというのが氏の主張である。
「カメラ」の章の「月例始末記」で最後に氏が述べる言葉は印象的である。写真をやってきて、何が得られたかと聞かれると、いつも次のように即答するのだと。
〈「光を得た」
つまりことばにも光の方向と量とがある。できた作品にも明度がある。これは写真とおなじかもしれない。〉
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