戦争は沢村栄治の野球を三度奪った
それと同時に、悲劇的な時代を生きて死んだ7人の生涯を通して見えてくるものは、やはり野球への強い思いである。
巨人軍・永久欠番14。その年の投手の最高栄誉として贈られる“沢村賞”の名にもなった沢村栄治。今日では巨人軍伝説の大エースと呼ばれている彼もまた、戦争に翻弄された悲劇の野球人の一人だ。
彼の悲劇は、昭和19年12月に台湾沖で輸送船と運命を共にしたことだけではない。沢村は合計3三度の召集を受け、その度に戦争は沢村の野球をボロボロにしてきた。
沢村栄治が沢村栄治だった頃。それは、いわゆる「豪速球」と「懸河のドロップ」を武器にし、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらを手玉に取った昭和9年の“日米大決戦戦”の時であり、最初の召集令状を受けるまでの沢村である。
昭和13年。一度目の召集を受けた沢村は、中国戦線で左手を銃弾が貫通する大怪我を負うなど体が酷使されてしまう。その結果、復員後は160キロを超えるとも称されたストレートの威力が明白に衰え、技巧派投手へと変貌することを余儀なくされた。
さらに昭和16年には二度目の召集でフィリピンへ派兵。2年後の復員時には過酷な軍隊生活で体はボロボロとなりサイドスローともいえるフォームまで腕は下がってしまい、投手失格の烙印を押されてしまう。
だが、それでも沢村は野球への思いの火は消せず、打者に転向までして野球にすがりつくのだが、結局翌年2月に球団から解雇宣告を受け、その年の12月に失意の中で戦死する。
その胸中を慮れば無念は如何許りか。沢村だけではない。本作にはそんな野球人の無念の思いが満ちている。戦地で「ボールを握りたい」と繰り返していた新富卯三郎。特攻隊の出撃直前に、最後のキャッチボールをして飛び立った石丸進一。彼らの「野球をやりたい」という痛切な思いは、現代に生きる我々の胸にも鋭く突き刺さる。
だが、筆者はこの本を悲劇の物語としてだけでは完結させない。
それは戦後に近代野球の祖となる川上哲治が、熊本工業時代にバッテリーを組んだ吉原正喜を終生思い、「今の自分があるのは吉原のおかげ」と語り続けたこと。はたまた沢村と同郷の巨人軍・中村稔が沢村の師匠から教わった“足を高く上げるフォーム”を、約30年間コーチを務めた中で西本聖ら後輩たちに教えとして残したこと。
死後の記述によって、彼らの思いは生き残った者たちへと受け継がれ、わずかな痕跡なれど現代の野球界へと繋がっていることを想起させてくれる。
著者はいう。
「時代の不条理とは常に単層構造では存し得ず、その実相を描くには百万言あっても足りない」。
至言である。本作に登場する逸話も、激動の時代にあった人生の一側面に過ぎないのかもしれない。石碑に謳われるように7人の野球人は未来に夢など託せたのか。
その無念、思い。生き残った人らの思いを通じ、改めて思う。日本野球の原動力は人の思いであり、情念の結晶なのであると。
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