手紙の主の父親は長い戦後の中で、やがて若き日に傷を受けて彼のその後の人生に深い陰翳を与えてきた足を失う。あのとき周囲で既に死んでいた戦友たちの亡霊が父親の足を奪っていったかのような印象を、手紙の主は受ける。ここで「耳なし芳一の話」の平家の武者の亡霊が耳を奪ってゆくくだりが改めて思い出されもするだろう。私には『夜蜘蛛』が「耳なし芳一の話」を遅延させた物語のように感じられる。芳一はすぐに耳を持っていかれるが、手紙の主の父親はなかなか足を持ってゆかれない。長い戦中と戦後がはさまる。「耳なし芳一の話」が遅延するとはそういう意味である。その途中で乃木希典のイメージが膨らんでくる。おまけに、手紙の主の父親にとっての恥の意識は戦争の記憶だけでなく、老年期に別次元の事柄でとてつもなく増幅される。「下の世話」のことである。汚れと恥。この小説の大切な要素である。手紙の主の父親をめぐる汚さの描写が、戦友の死体に隠れて生き延びた彼の恥の意識と相乗するところに、本作のひとつの上手さがある。
耳なし芳一は安徳天皇、乃木希典は明治天皇、手紙の主の父親は昭和天皇。耳なし芳一は壇ノ浦の近くの寺の僧侶なのだから山口県。乃木希典も山口県。手紙の主の父親も山口県。作者も山口県。天皇やナショナリズムという主題を山口県の作家として突き詰める。そんなこだわりが田中慎弥にはあるのだと思う。『夜蜘蛛』に続く『燃える家』や『宰相A』もそういう路線上に理解できるだろう。
ところで、夜蜘蛛のまがまがしさで作品を塗り込め、手紙の主の父親の自意識を乃木希典と結びつけ、足に特徴づけられる蜘蛛と傷ついた足に規定される父親を関連させ、そうやって作品を導ききるのは、手紙の主である。
そもそも夜蜘蛛とは何だろうか。日本のあちこちに古くからある縁起かつぎだ。夜に出会う蜘蛛は不吉だから「親に似ていても殺せ」とまでいい、朝に出会う蜘蛛はその逆だという。ということは夜蜘蛛とは、この小説が足をめぐるものだとか、戦争の不吉さとつながるものだとかを、印象づけたいためだけに出てきているのではないだろう。親に似ていても殺さなくてはいけない夜蜘蛛とは親の分身でもあるだろう。本作は戦争で死ねなかったお父さんの落とし前をどうつけるかという小説であり、広い意味での「父親殺し」を主題としているとも読める。蜘蛛の含蓄が決して長くはない本作を果てしなく長く遠くにまで押し広げている。蜘蛛の足はよく伸びるのだ。
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