吉沢氏の日記も同じである。翌日に何が起こるか予測できず、生きているかどうかもわからない中で書かれたものだからこそ、当時の人々が、どんな思いをもって、どのように暮らしていたのかが、実感をともなって伝わってくる。戦後になっての回想からはこぼれおちてしまう、そのときそのときの「いま」が定着されているのだ。
戦争について取材をしてきた私のような書き手にとって、戦時中の日記は第一級の資料である。政治家、官僚、軍人、作家など、多くの日記が刊行されているが、そのほとんどが男性の手になるもので、女性が書いたものはごく少数だ。特に、職業をもつ若い独身女性の日記は珍しく、まとまったものを読んだのは、吉沢氏のものが初めてだった。そういう意味でもたいへん貴重な記録である。
本書に収録された日記の文章には、空疎な言葉はひとつもない。あくまでも具体的なモノや出来事に即して、戦時下を生きる女性の日々が綴られており、先の見えない苦しさの中で、ときに投げやりになりそうな気持ちも正直に書かれている。
これは、「はじめに」にあるように、吉沢氏が助手をつとめていた古谷綱武氏から、自分が不在の間の東京の様子と、そこで生きる心持ちを、できるだけくわしく書いておくように頼まれていたという事情のためもあるだろう。
古谷綱武氏は、一九〇八(明治四十一)年生まれ。昭和四年に大岡昇平、中原中也らと「白痴群」を創刊、同八年には太宰治が「魚服記」で文壇デビューを果たした「海豹」を創刊している。若くして文芸評論家として注目され、女性評論も手がけた。戦前、戦中、戦後を通して、著述や講演などで幅広く活躍した人である。
吉沢氏は、女性であっても自活して生きていきたいと思い、新聞社が設立した福祉関係の財団で働きながら、速記の学校に通って資格を取った。速記者は、当時、女性が社会で活躍できる数少ない専門職の一つだった。
あるとき知人から古谷氏を紹介され、講演のための口述原稿を作る仕事を頼まれたのが縁で、古谷氏の助手として仕事をするようになる。戦争が始まっても東京にとどまっていた吉沢氏は、昭和十九年に古谷氏の出征が決まると、杉並の家の留守番を頼まれたのだった。
その古谷氏に、戦時下の東京の現実を報告しなければという意識があったためなのだろう。何をいくらで買い、どう料理して食べたか、どの路線を使って通勤し、空襲警報が発令された夜には何をしていたかなど、日記には日々の暮らしが、地に足のついた言葉で具体的に綴られており、それが本書の最大の魅力になっている。
十二月三日の日記には、午後二時ごろから二時間ほどの間に、何度も空襲警報が発令されたことが書かれている。その間、吉沢氏は、日なたぼっこをしながらつくろいものをしていたという。「針を運んでいると気持ちが静かになる」と書かれていて、そんなことをしていたのかと、驚きをもって読んだ。
警報が解除されるまでは、いつでも壕に待避できるように準備して待機していなければならず、家の中に引っ込むことも、どこかへ出かけることもできない。それで、日の光の下でつくろいものをすることにしたのだろうが、これまでに読んだ手記や小説にも、また映画やドラマにも、警報下でときどき空を見上げながらつくろいものをするシーンなど出てこない。こうした日記によって初めて知ることのできる、意外だがそのぶんリアルな、戦時下の日常である。
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