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〈兄弟対談〉『日本橋バビロン』をめぐって。小林信彦 vs. 小林泰彦

〈兄弟対談〉『日本橋バビロン』をめぐって。小林信彦 vs. 小林泰彦

構成:「本の話」編集部

『日本橋バビロン』 (小林信彦 著)

出典 : #本の話
ジャンル : #小説

消えていった河岸

泰彦 何かのついでに訪ねてみても、面影がもう何にも残ってなくて寂しいね。両国橋の親柱の上の〈玉〉ぐらいかな。

信彦 離れたときは下町はもう嫌だと思ってたけど、三十代のときに行ってみたら川が臭くて。公害だね。望郷の念を持ってたけど、人間臭かった街がもうなくなってしまった。

泰彦 あれが本当のグラウンド・ゼロだよ。震災、戦災とあったけど、やっぱり敗戦が大きかったと思う。震災の後は一応みんな復興したらしいけど、戦後になって社会がまったく変わってしまった。この間になくなった職業がたくさんあるよ。もう元の街にはもどれなかったということだね。

信彦 戦後すぐに隅田川から何十メートルは緑地帯にすると役所が決めて、その範囲には住んでも無駄ですよという告知が新聞に載った。この計画はGHQの許可が下りずにご破算になったらしいんだけど、親父はそれを信じて、はっきりいえば、だまされて、両国の土地を売ってしまった。

 昭和二十三年頃は隅田川の河岸に空襲で焼けた残骸やら瓦礫が積み上がって一メートル半くらいの高さの土手みたいになってた。戦後再開一回目の花火はそこにのぼって見た記憶があるな。

泰彦 瓦礫の山だね。割と早くだと思うけどそれがどかされて、しばらくきれいになってた。戦前と同じ状態にね。ところが、昔でも水害はあったはずなのに、下流のほうにゼロメートル地帯があるので、その護岸工事をやったついでというか、その流れですごく高い堤防が作られたために「大川端(おおかわばた)」といわれた歴史的な景観や情緒が完全に消えてしまった。

信彦 乱暴だね。昭和二十年代だから、美観とかなんか考えない。とにかくやっちゃえ、という感覚だったんでしょう。

泰彦 もっと後のことだけど、日本橋の上に高速道路を通すというものすごい文化大破壊をやってくれた。あれと同じで、「浮いた浮いたと浜町河岸に」が河岸じゃなくなってしまった。川と人間が長く付き合ってきたのに、それがぷっつりと途切れてしまった。

信彦 それと空襲前に走っていた都電がなくなった。都内のほかの場所ではあまり聞かない話だよ。ものすごくマイナスの力が働いていたってことだね。

 それから一九七一年に両国という地名が使えなくなった。両国と東両国、両国という地名が二つあったのが、町名変更の対象になった。東両国が両国になって、本来の両国が東日本橋二丁目。役人はこういうのを整理したがるんだろうね。

泰彦 神田には昔の町名が残っていてね、あれがいつもうらやましいと思うんだ。

信彦 町のうるさ方が残ってたんだよ。断固変えないっていうのが一人か二人でも、いるのといないのじゃ違うよ。両国はみんな焼け出されて、散っちゃったから、言うに言えない。

泰彦 話はちょっとそれるけど、今はJRの駅名もアキハバラになっちゃったけど、本当はアキバハラなんだよ。秋葉(あきば)権現を祀る神社があって、それが他に移った跡の原っぱが「秋葉が原」。アキバガハラって呼ばれてたんだ。いま通称で「アキバ」になって、期せずして昔の地名が復活してる。地名にはどれもいわれがあるわけですね。

信彦 だけど、両国の人はしつこいよね。たとえば、画家の木村荘八さん。少年時代の友達を集めて、ここには何があった、ここの角は何とか屋だったって、震災前の両国の本を出してる。

泰彦 ぼくは木村先生の押しかけ弟子なんだけど、その先生がおかしいのは同じことを何度もやってる。定本を出してるのに、戦後も、実はこうだったとか、また定本を重ねてる。震災で両国橋の位置が変わった上に空襲があって遠い遠い話なんだけど。つまり、どれも「望郷」の想いなんだ。こうして話してるのも同じだけど、われわれもけっこうしつこいね。

信彦 清水幾太郎さんもそうだ。あの人、昭和二十年代後半は左翼として有名だったけど、非常に柔らかいエッセイ集を出してる。その表紙なんだけど、両国橋があって向こうに国技館の屋根が見える。〈両国といっても、あの川の向こうの両国じゃないから、あくまでこっち側の両国だから〉ってくどくいったらしい。

――最後に、読者が両国橋周辺を散策するときにおすすめの場所はありますか。

泰彦 一番わかりやすいのは薬研堀のお不動さんじゃないかな。今じゃ建物が鉄筋コンクリートの二階建てになってるけど、昔は並びの「こんぴらさん」と両方のご縁日があって、これが楽しみだった。

信彦 その斜め前が太田牛乳。ここは場所がぜんぜん変わってない。それと、以前、エッセイで洋食屋の芳梅亭のことを書いたら、面識がないのに安藤鶴夫さんが「あそこはいわゆる本当の東京の下町の正しい洋食屋だった」って葉書をくれた。

泰彦 安藤さん、あそこに来てたんだ。

信彦 昭和の初めから戦争が始まる前くらいまで、下町に憧れる当時の若い人たちは、柳橋は敷居が高いから、同じように川が見えて雰囲気のいいところに来て楽しもうという気分があったんじゃないかな。芳梅亭でも、人形町に行っちゃった寿司屋でもいいし、お金がなかったら喫茶店でもよかった。いたるところで情緒を楽しめる街だったんだな。柳橋という花柳界の〈門前町〉と考えればいい。

泰彦 だけど、もうそういう店もほとんどなくなった。われらのロスト・シティだね。

日本橋バビロン
小林信彦・著

定価:本体571円+税 発売日:2011年09月02日

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